乞巧奠(2)
『文房四宝』という言葉がある。筆・墨・硯・紙、特にその名品を指す言葉だ。
『宝』とは言われているが、結局は消耗品で、どんなにありがたがっても使わなければその価値はないし、使えばなくなってしまう。
死んだ俺の親父は、その墨作り職人だった。
そして、
あの文を開けた時に感じた、妙な懐かしさ。あれは……
親父の墨の香りだ。
だがなぜ?
親父は特に名人という訳でもなかった。だからあの墨をありがたがって愛蔵するような者はなく、もうこの世に親父の仕事はなくなっていると思っていた。
もし、残っているとすれば……
「恨み言の一つも言われるかと思った」
「どうして?」
七日夜の月明かりの下、そこだけは少女の頃と変わらない大きな目が俺の方を見上げて言った。
「その……約束が守れなくて」
『七夕の約束』。思い出してみればそれは大したことのない約束だった。
墨を作るには、時間が掛かる。
油を燃やして煤を集め、膠や香料などと混ぜて練り固め、型に入れて乾燥させ、形を整えて出来上がり。
一言で説明すると、それだけなのだが、最後の『乾燥』が厄介だ。じっくりと時間をかけて乾燥させないと、ひびや割れが入る。乾燥している間の置き方が悪いと、形が歪む。そうなってしまうと、もう出荷はできない。
若い時分、そういった墨を使って近所の子供たちに手習いをしていた時期があった。
彼女はその頃の生徒の一人だった。しかも、かなり出来が良い方の。
歪んだり割れたりしたのじゃなくて、ちゃんとした墨が欲しいな、という愚痴に、なんとかしてやりたい、と思うほどに。
親父が死ぬ前の年の七夕に、まだ乾燥を終えていない生の墨を彼女に贈ったのは、そんな気持ちの表れだった、と思う。
乾燥させるにあたっての注意を事細かに教え、巧く仕上げる事ができたら、来年はちゃんとしたのを上げよう、と。
親父が亡くなったのは、翌年の冬で、長兄が工房を継いだ。長兄は親父が守り続けた材料の調合を変え、もっと安く、大量に作れるようにしてしまったので、親父の墨はそこで途絶えた。
俺はそれを機にうちを出た。長兄とはあまり折り合いが良い、とは言えなかったからだ。
そのせいで、七夕の約束を守る事はできなかったのだ。
故郷を出てしばらくの間はその事で胸が痛んだが、やがてそれも薄れてしまった。
あれから二十年余り。
家を出たころに持っていた大望はとうに潰え、大家の食客という名の居候として日々を送っているところに、あの手紙が来たのだ。
「この近所で、代書をする女性をご存じありませんか? 老若は問いませんが」
女主が返書をしたため終えるのを待ってそう訊ねたところ、数人の名前が挙げられた。
その中に、彼女の、やっと思い出した『約束』の相手の名前があった。
「そりゃ、あの時は『約束が違う』と思いましたよ。でもこの歳になると、約束を違えられる事なんて、ねえ?」
言外に苦労の多い人生だったと匂わせる。
際立って人目を引く、という容貌ではない。
だがその話し方は落ち着いていて、深い知性を感じさせる。
「じゃあ、どうしてあんな……いや、それ以前に、どうして俺の事が?」
「それは……手跡を見れば……」
手跡?
自慢じゃないが、俺の字は読みやすいだけが取り柄で、人に覚えられるほど印象的なものではない。
「そんな、一目見て判るような癖はないはずなんだけどなあ……」
「そりゃ、毎日見ていれば……」
こちらを見ていた顔がふと逸らされる。七日夜の月明かりは、それだけで彼女の表情を隠してしまう。
「毎日?」
「手本帳をくれたでしょ? ご自分で書いたのを」
そんな事もあった……だろうか?
それにしても。
「あるかないかも自分では判らないような癖を覚えてしまうほど?」
小さな髷を結った頭が頷く。
「……どうして?」
「そんな事、女の口から言わせるおつもりですか?」
「うーん……その辺の機微が解らないあたりが、未だに独り者な理由だと思う」
甲斐性がない、というのも大いにあるとは思うが。
「解ってて人に言わせようとするのがいけないのかもしれませんよ? ……こんな人だと解っていれば……」
解っていれば、どうだったというのだろう?
あんな事は書かなかった、だろうか? それとも……
彼女がかつての向学心に燃えた少女ではないように、俺も昔のような……何だろう? とにかく、昔の俺ではない。
暗がりの方を向いているので、彼女がどんな表情をしているのかわからない。
「失望、しました?」
「……どうでしょうか? でも、思い出せていただけて良かった。半年も音沙汰がなかったので、もしかしたら私の勘違いだったかしら、と思いかけていました」
暗がりに向けていた顔を体ごとこちらに向けて微笑む。
「今更『約束を果たせ』とは申しませんから、ご安心なさって」
彼女の方から話を畳もうとしている。
自分の方から謎かけをしてきたのに。
「息災でいらっしゃると判って安心いたしました。では……」
軽く頭を下げて踵を返す。
「待ってください」
向こうへ行きかけた動作が止まる。でも、顔は向こうを向いたままだ。
「また……会っていただけますか?」
「お互いの居所がわかっているのですもの。会おうと思えばいくらでも会えますわ」
背中を向けたままそう答える。
まっすぐに伸びた背中が美しい。
人に頼って、人に守られて生きて来た女のそれとは違う背中。
「会うのを妨げるようなひとはいませんし。……私の方には」
翻って自分の体たらくを思う。
どの面下げて『また会いたい』などと言えるのか。
「では……来年の今日、同じ場所で」
「楽しみにお待ちしていますわ」
彼女はそのまま、一度も振り返らずに去ってしまった。
あの背中にふさわしい、とまでは言わない。
かつての少女を失望させない男にならなくてはいけない。
来年の七夕までには。