乞巧奠
「文を代書してくれませんか」
思い詰めたような顔をして、言い難そうにそう切り出したのは、手代の梁。
「それは構いませんが……何処の誰宛にです?」
そう訊ねると顔を赤らめて俯く。
ははあ、女がらみか。
しかし珍しい。
梁は堅物で通っていて、三十になるこの歳まで浮いた噂ひとつない男だ。色街に足を踏み入れたって話も聞かなきゃ、邸の女奉公人とさえ、めったに口を利かない。……もっとも、男の奉公人とだって、必要最低限の話しかしないって噂だが。かく言う俺も、やつの声を聞いたのは初めてだ。……と思う。
「――の――」
蚊の鳴くような声で告げられたのはどうやら女の名前だが、よく聞き取れない。
「はい?」
改めて訊き返すと、鄭家の奉公人で名を小蓮という娘らしい。
鄭家といえば付き合いのない家ではないから、そこの奉公人と知り合うのもおかしくはないが……
まあいい。やつがどうやって女と知りあったかなぞは俺には関係のないことだ。
「で、どういった内容です? 『嫁に来てください』ですか?」
「い、い、いや、いきなりそんな……」
慌てたように手をばたばたさせる。
「いずれは、とは思っていますが、まだそんな……」
「……まさか、とは思いますが、話をしたこともない、とか?」
顔を一層赤らめて頷く。奥手にもほどがある。
まあ、旦那様が嫁を世話してやろうとしても、固辞したって男がその気になったっていうのが驚くべきことではあるので、なんとかそれらしい文章を見繕って持たせてやった。
十日ほど経って、梁がまた俺の前に現れた。返事をもらったので、読んでほしい、というのだ。
「返事、って、直接聞いた訳じゃないんですか?」
聞くと、なかなか手渡す折が無く、人を介したのだという。それじゃちゃんと本人に渡ったのかどうか怪しい、と指摘すると、遠目ではあるが彼女が受け取るところを見たという。
「受け取ってすぐ、誰かに呼ばれて懐にしまってしまったので、ちゃんと読んでもらえたかどうか心配してたんですが……」
どうやら相手の娘もそれなりに忙しいらしい。
早く返事が知りたいらしくてうずうずしている様子の梁に急かされて文を開く。
開いた瞬間、妙な懐かしさが頭の端をかすめる。
その懐かしさの源がなんであるのか確かめる暇もなく、流麗な女手の文に目を落とす。
小蓮からの返事はそんなに長いものではなかった。
あなたの顔と名前は存じ上げていました。ですがあなたの事はそれしか知らないし、それにまだ自分は年季がだいぶ残っていてそういう事を考える暇も気力もありません、というのが概ねの趣旨だった。
残念だが、遠回しなお断り、と言ってよかろう。
梁はあからさまにしょげた。
「待ってください、続きがあります」
小蓮の言葉を綴った本文とは別に、この文を書いた女性の意見であろう添え書きがつけられていたのだ。
それによると、小蓮が入りたてで余裕がないのは事実だが、彼女の様子を見ると、全く脈が無い、という訳でもなさそうだ。なので、焦らずに折りを待て、とのことだった。
「焦らずに、って……ど、どうすれば」
途方に暮れたような表情の梁にできた助言は、「まあ、嫌われない程度に、相手に自分の事を好いてもらえるように努力することですね」と当たり障りのないものだった。
「だから、それはどうやって……」
とうろたえる梁を、それは自分で考えろ、彼女の事はお前の方が詳しいだろう、と突き放す。
こっちはそれどころではない。
件の女は続けて、俺に宛てたと思われる意味深な言葉を書いていたからだ。
『七夕の約束を、覚えていますか』
覚えが無い、というか、あり過ぎる、というか……だいたい、その『約束』はいつ頃のことだ?
こんな流麗な文字の書ける女だ、どこかの妓楼上がりだろう。だとしたら……
妓女相手のその場限りの空約束なら、数えきれないほどしている。
たいていは閨での睦言のついで、その場の勢い、思いつきだ。
相手もそんな約束を信じている訳ではないだろう。……と、思っていた。
だが、そうではない、としたら?
背筋が寒くなった。
……いや、待て。
そもそもこの女、何を根拠に『約束』の相手がこの手紙を受け取ると考えた?
もしかしたら、人違いではないのか?
……一晩考えても判らないので、そういう結論に達して、その事は忘れることにした。
気軽な食客の身とはいえ、こまごまとした雑用は次々と持ち込まれるのだ。
多少の引っかかりを覚えても、自分に宛てたものだという確信のない言葉なぞに、いつまでもかかずらってはいられないのだ。
その後、梁と小蓮の仲が進展したかどうかは、定かではない。
やつが代書を頼みに来ないからだ。
……という事は、直接話をする事くらいはできるようになった、という事かもしれないが。
乞巧奠は技芸の上達を願う祭りだ。
天帝の怒りに触れて離れ離れになった夫婦の再会を願う祭りでもある。
だから、俺の育った田舎では、徴兵された夫の無事を祈る祭りでもあった。
笑いあいながら五色の糸で飾り付けをする女たちを見てそんな事をふと思う。
なぜ、そんな事を思い出したのか。田舎の事を思い出した事なんて、久しくなかったのに。
少し考えて、その理由らしきものに思い当たる。
流麗な女手の主が寄越した、謎の伝言の事が、どこかにひっかかっていたのだ。
あれは確か、冬の終わりごろだった。なのでかれこれ半年近く前になる。
きっと人違いだろう、と結論付けて忘れることにしたはずだったのだが……
しぶとく覚えていた自分に、思わず苦笑する。
「何かおかしな事でも?」
「ああ、いえ、……ただの思い出し笑いです」
「思い出し笑い? 珍しいこともあるのね」
鄭家の女主が父親に似た、人をからかうような笑いを浮かべる。
「私だって思い出し笑いくらいしますよお嬢様」
婿を迎え入れて家を継いだはいいが、その婿に先立たれ、若くして寡婦になった彼女は、昔から子ども扱いを殊の外嫌っていた。
ささやかな意趣返しは幼い子を抱えて五年もこの家を切り盛りしてきた彼女には何の痛痒も感じさせなくなっていたようだ。
「ですってよ、梨々」
「何か言ったぁ?」
不意に呼びかけられて、部屋の反対側で飾り付けをしていた彼女の娘が纏足の小さな足でよちよちとこちらにやってくる。
「呼んでいませんよ。母君の聞き違いです」
大人の話に混ざりたい少女をそうやっていなし、女主が溜め込んだ返書を認めるのを待つ。
彼女が文箱から硯を取り出して墨を磨りだすのを見て、「あ」と声を上げる。
「何か?」
女主が怪訝な表情で顔を上げる。思ったよりも声が大きかったようだ。
「いえ、何でもありません。……ちょっと思い出した事があったので」
「今日は変ですね。思い出し笑いをしたり、いきなり叫んだり。……雨にならなければよいのですが」
今宵は乞巧奠。
技芸の上達を星に願う祭りだ。雨が降っては台無しになってしまう。