第五章 疑惑
翌日の朝、舞が居間に行くと真冬はすでにいなかった。机の上のメモには
【早めに行ってくる】
という走り書き。時間はまだ6時半を過ぎた程度だ。食べ終わった後の皿などが無造作に洗い場においてあった。昨日の出来事が夢のように思えた。正直舞はホッとしていた。まだ真冬を安心させるような言葉が見つからなかったのだ。とはいえこのまま真冬を放っておく訳にはいかない。舞には目に見えない誰かが真冬を導いているように感じていた。もちろん、導いているとすれば、それは一人しかいないが・・・。そのとき、携帯のバイブレーションの音に気がつく。開けばメール、送信者は『春樹』。そこには、
【波に連絡しとけ】
と一言だけあった。
尋はたいてい決まった時間に来る。少し早めに大学に来ては、やり切れていないレポートや課題をやるのが彼の決まり事だ。そんなわけで今日も期限が近い課題をゆっくりとこなしていた。ただあまり集中できなかった。もちろん、昨日の彼女の事だ。どこで食い違っているのだろう・・・。間違いなく彼女と付き合っているのは夏目裕也だ。しかし彼女は彼のことを『春樹』と呼んでいた。どうして彼が『春樹』なのか全く分からない。どうして・・・。考え込んでいたせいで後ろに誰かいることすら気付かなかった。
「ぁっ」
その声は何度も聞き慣れた声だった。振り返ればいたのは、そう彼女だった。お互いに唖然としたまま硬直してしまう。・・・なんだ?どうしたらいい?あちらも困っているようだが、何に?
「あ、あの」
「は・・・え?」
何よりも、何よりも嬉しかった。彼女が、声をかけてきたから。そのおかげで何を返したらいいかわからないのだ。
「よく、授業一緒だよね、私柊真冬っていうの」
「うん・・・ぇ?」
嬉しさに相まって驚き、そして疑問。まるで初めて会ったみたいに。彼女もなにか気恥ずかしそうにしている。
「あなたの・・・名前は?」
「え・・・尋・・・だ、けど」
「尋、君ね。これからよろしくっ」
ニコッと笑った彼女に尋は何も返すことができなかった。その笑顔は直視できないほどに眩しく見える。だがそれ以上に、彼女の言っていることがわからなかった。それから彼女は話し始めた。お互いの受けている授業の話とか、あの講師はどうだ、なんだなど。尋はただ、相槌を返すだけだ。尋にとって、こんな他愛ない会話は今までずっと望んでいたことだ。なのに話に集中できなかった。どうして、どうしてこんな事になっている・・・?彼女は、そう彼女はまるで・・・自分を忘れているみたいだ。わからないことばかりの中で一つ、尋はどうしても聞きたいことがあった。でも、彼女には彼女なりの理由があるはず。そう思っていても考えている方とは逆の答えが口から出て行く。
「昨日一緒にいたのって彼氏?」
「ぇっ・・・あぁそうだけど、何で知ってるの?」
ついて行ったから…などと言えるはずがない。
「あぁ・・・それは昨日帰り道に真冬がその人と二人で歩いてるのを見かけたからさ」
と答える。まぁあながち間違ってはいない。事実帰り道はあの方向だし、見かけた、といえば嘘になるが似たようなものだろう。そう自分勝手に考えをまとめる。
「ふーん・・・そなんだ。もしかしたら家も近いかもねー」
と全く疑いの目を向けない彼女にホッとしつつ一番聞きたかった言葉を口にする。
「彼、名前はなんて言ったっけ?」
「名前?春樹。季節の春に、あのー木の難しい方?の字を書くの。それで春樹」
「春樹・・・っていうんだ」
彼女の口から出たその言葉は、さらに頭を混乱させる。
「うん。それがどうかした?」
彼女は誤解しているのか?それとも夏目のことを本当に『春樹』だと思っているのか? 様々な疑惑が尋の心を揺さぶる。どうしても、聞きたい。彼女は何を考えているのか・・・。
「あのさ・・・その春樹って人は―――」
「まーーっふゆっ♪」
言いかけたその時、突然割り込んできた女子に話を遮られ口をつぐむ。
「ぁ・・・波。おはよ」
「おっはよーさん!早すぎじゃない??」
・・・なんて間が悪い、とは思いつつも内心ホッとした。あのまま続けていたら・・・?
「アレ?君・・・誰だっけ?」
「ぇ・・・俺は―――」
「彼は尋君。カタカナのヨにカタカナのエに―――」
「そんぐらい分かるわよ」
「へぇ?波のくせにね」
「なにそれ真冬が言えるのそれ?」
二人で笑いながら話しているのを尋はぽつんとしながら見ていた。あちらはまるで知らないようだが、尋は知っていた。本田波。彼女といつもいっしょにいる。高校も一緒だというのに、自分はそんなに影が薄かっただろうか?普通なら怒るところ何だろうが尋にとってはこういう空気は慣れっこだった。ともかく、今日はここまでだろう。とにかく彼女とまた友達になれた。それだけで尋は幸せだった。気になることはたくさんあるけど、それだけで十分だった。
「ぁ、ゴメンちょっとトイレに行ってくるから」
「ぁごめん、なんか話そうとしてなかったっけ?」
決まり悪そうな彼女の顔が何故か心地よかった。
「いいよ。また話すからさ」
と言いながら扉の方へ向かう。『また』。その言葉が耳に心地いい。
「ナニナニ?浮気ですか?」
「なっ!?彼はそんなんじゃないってば」
「へぇ~。だってさ・・・・」
後ろから話し声が聞こえていた。
―――彼はそんなんじゃない―――
急に現実に引き戻される。もちろん、それは当たり前の発言。だがこの胸のつまりは―――
波は急いでいた。真冬が裕也を知ってしまった、ここ最近で一番の出来事だ。少なくとも真冬は気付いていない。春樹、裕也、そして真冬自身がどれだけ複雑に入り組んだ関係なのか、ということ。講義室の扉を開けると真ん中あたりの席に真冬はいた。男子と話しているのが見える。が、遠目からでは誰なのかよく分からない。
「まーーっふゆっ♪」
と近づいて声をかける。
「ぁ・・・波。おはよ」
いつもと変わらない真冬、だとは思うが・・・。
「おっはよーさん」
と隣を見る。そういえばこの男、見覚えがある。いくつかの一般科目で見たことがある。なんだかおとなしそう、というのが波の第一印象だった。そして疑問がよぎる。改めて見るとこ、なんだかこの顔・・・どこかで・・・。
「アレ?君・・・誰だっけ?」
名前を聞けば思い出せる気がした。
「彼は尋君。カタカナのヨにカタカナのエに―――」
「そんぐらい分かるわよ」
尋・・・聞いたことはない、多分。何にせよ真冬が男友達といるのは珍しかった。
「ぁ、ゴメンちょっとトイレに行ってくるから」
と言いながら席を立つ彼。
「ぁごめん、なんか話そうとしてなかったっけ?」
この会話が成り立たなかったのは自分のせいなのだろうが、なによりも今は真冬の方が大事なんだ。
「いいよ。また話すからさ」
尋、という男が扉の方へ向かっていくのを見届けたあと、改めて真冬を見る。
「ナニナニ?浮気ですか?」
と茶化してみる。
「なっ!?彼はそんなんじゃないってば」
「へぇ~。だってさ尋って子の方は多分まんざらでもなかったぞ?」
「違うってば」
「ふーん?」
いつも通りの真冬。よかった、波はホッとした。さほど気にならなかったんだろうと思って『いた』。
「ぁ、波に聞きたいことあるんだけどさ?」
「はいなんでしょう?」
「・・・裕也って人知ってる?」
午前中の抗議が終わった後波はお昼を買いに行く、と行って真冬と別れた。その後携帯を開く。送信者は舞。なんて送ろうか・・・、とりあえず結果から。『真冬はあきらかに裕也を気にしてる』そう、真冬は『裕也』を気にしてしまった―――
「ぇっ?」
さっきまでの態度からは意外な言葉が出てきたので返答に遅れてしまった。
「だから、裕也って人知ってる?って聞いたんだけど」
「・・・ゆうやぁ??知らないよそんな人・・・誰誰?」
それは朝からずっと考えていた言葉だった。ただ、突然だったせいか少々わざとらしくなってしまったかもしれない。そもそも最悪のケース用だ。しかし真冬は全く疑う様子がなかった。
「そっか・・・知らないならいいや」
苦々しく笑う真冬。
「で・・・誰なの?その人」
「わかんない・・・誰なんだろ」
下を向きながらうつむく真冬。
「なんかあった?」
もちろん知ってる。あなたが悩んでいること、思っていること全て。こう聞くのは馬鹿げているのもわかっているけど、これは演技じゃない。
「昨日さ―――」