第四章 相違
山の上から見る八子市はなかなかな景色である。昼間はそれほどでもないが、夜には見渡すかぎりのネオンライトが点々と散りばめられるのだ。八子市の人間はその景色を見るためによく登山家に限らず誰もが山に登る。
「・・・ふぅ・・・」
舞がいるのは、ちょうどその山というわけだ。だが目的は景観ではない。やけに高い階段は少し登るだけでも息が乱れる。最近は少し運動不足だったかもしれない。何より、ここには久しく来ていなかった気がする。
「いち、にー…さーん、よん番目っと」
目的の場所はひっそりとそこにあった。周りにあるものとは比べるとずいぶんとみすぼらしく見える。特にそれの左には巨大な建造物がある。確か、八子市でも有名な人だったとかなんとか。大抵の人間はそちらに目を奪われる、私の前のものには気が付きもしないだろう。
「おはよっ、って言ってももう昼間か…」
と時計を見ながら語りかける。いつのまにか時間は正午を過ぎていたようだ。朝早く出たはいいが、いろいろ準備が会ってこの時間になってしまった。
「いやあ、ね。もっと早く来たかったんだけど、いろいろあってさ」
いろいろ・・・。単純にここに来るべきかどうか迷っただけだ。どうして、ここに来たのかはわからない。この先の答えがあるとか、そんなふうに思っていたのかもしれない。
「・・・裕也がさ・・・、不安がってたの」
「・・・・・」
「珍しいよね、あんなに意地っ張りな奴なのに・・・さ」
それは返事をするわけもなく、周りはシーンとしたまま。聞こえるのは、時々ふく風が、木々を揺らす音。
「もう、見せた方がいい、のかな・・・?」
誰にも聞こえないような、消えそうな声で、目の前にある名前をただ一点に見つめた。それは答えない。自分は、何を期待してるんだろう、と急に冷静になる。ここに来た所で何も変わらない。だからここへは出来るだけこないようにしていた。もしかしたら真冬が感づくかもしれない。それに『意思』が揺らぐかもしれない・・・。
『ガサッッ』
「っ!?」
急に聞こえる葉音、ハッとして後ろを振り返ると・・・、そこには何もない。前を見れば全く変わらないそれと名前。
「・・・うん・・・・そ、だよね」
別にそれが答えたわけではない。音の先に何かが合ったわけでもない、が・・・。何かがそうさせたんだろう・・・。そう、思うことにした。
激しい虚無感が裕也を包んでいた。頭のなかをぐちゃぐちゃにかき回される、そんな感覚。めぐる記憶の中に見えるのは、あの光景。まだ、自分が自分だったそのときのもの。とにかく、さっきの言葉は裕也に確信をもたせるほどだった。真冬は・・・記憶が戻る。
「・・・っだからさぁ?って私の話聞いてる?」
「・・・」
「・・・・ぇいっ!」
「痛ってぇな!なんだよっ!?」
反射的にでた言葉は自分でも驚くほどに凶暴だった。真冬の怯えた目がこちらを見る。このまま一緒にいたら、頭がおかしくなりそうだった。
「・・・わりぃ俺帰るわ」
それだけ言った後に裕也は来た道と逆に走り出した。
「ぇ??ちょっと!私なんかした!?」
後ろから真冬の声が聞こえていても、振り返ることはなかった。
舞は早歩きで帰路についていた。時間は夕刻、太陽が沈んで行くのが見える。やっぱりあの日記は早く見せるべきだったんだ。そうしたら、誤解もなくすべてが進んだはず。そう思っただけで、舞は驚くほどに気が楽になった。ずっと引っかかっていた喉のつっかえがとれた感じだ。裕也が信じている彼と私が信じている彼は違うことも証明できるし、なにより、裕也自身を開放できる、はずだ。
「・・・・ぁれ?」
真冬が帰ってくるには少々早い。しかし自宅には電気がついていた。・・・泥棒?しかし鍵は閉めたはず。では鍵が壊された・・・わけでもない。窓が割れている・・・わけでもなかった。急いで中に入ると
「よぉ・・・ちょ、っとソファー借りてるぜ」
と裕也がぐったりしたようにソファーに腰掛けていた。
「ちょ、ちょっと!どうしてあんたがいるの?真冬はどうしたのよ」
落ち着かず問い詰める。なにせ今日裕也は真冬とデートだったはずだ。昨日の夜、真冬が楽しそうにしてきた話だ。
「・・・置いてきた」
こちらの顔を見ようともせずに答える裕也。おそらく、合い鍵の位置を教えたのを覚えていたに違いない。どうやらずいぶん前からいたようで、ビールの缶が5、6個転がっているのが見える。
「はぁ?!真冬を置いてきた挙げ句、家のビールがぶ飲みして、どうかしちゃったんじゃないの??」
「ッハ……どうかしたってのは真冬のことを言ってんだよな?」
鼻で笑い飛ばしながら返す裕也。舞は焦っていた。ここまで不安定な裕也を見たことがなかった。
「俺さ・・・真冬のためにさ・・・・なんもかんも捨てたんだよな・・・確か」
「ぇ・・・?」
突然の言葉に意味が分からなかった。
「自分からな。裕也っていう人間捨てて。捨ててまで守りたかったもんがあったからっ!!!」
急に声を荒げ、ビールの缶を投げつける。壁に跳ね返ったビールの缶の音が家に響く。
その言葉と表情。なんとなくだが、事の発端が見えてきた気がする。真冬がまた・・・。
「なのに何だよ・・・結局はあいつの手のひらで踊ってただけっつうか・・・無駄だったんだわ。今までのなにもかもがさ・・・」
今までが・・・無駄?その言葉は舞の中の記憶を呼び覚ました。私が真冬のために『あの人』を捨てたことも無駄?・・・それは
「違う」
「ぁ?」
思っていた言葉が出てしまった。
―――どういうことですか―――
止まらなかった。
―――分かりました―――
これまでのすべてが無駄なら何のために・・・。
―――最後に・・・。僕は君が好きだった―――
「自分だけが被害者だと思わないでよ!!今までが無駄?なら何のために私は・・・」
よりにもよって、自分の頭のなかをめぐるのは一番思い出したくないものだった。
「それに!裕也は彼を勘違いしてる!彼にとってあの子は―――」
「春樹はアイツを捨てたんだよ!!!」
・・・言い出す前に言い返されてしまった。これなんだ。今までの根源。正さなければ、裕也は誤解したまま。その鍵になるのがあの日記だ。あなたは・・・!口を開きかけたそのときだった。
「なん・・・なの?」
二人の目線が同時に背後に移っていく。そして二人の目に映るのは、混乱している真冬の姿だった。
彼はどうして帰ったのだろう・・・。特別悪いことをしたわけではない、はず。なのにどう見ても彼は不機嫌だった。不機嫌・・・?そんなんじゃない。なにか、違うナニカだった。私・・・何かしたかな?真冬は不安だった。途方に暮れた様子で歩いているうちに家が見える家の明かり。どうやら舞は帰宅しているようだ。門を開け扉に手をかけようとしたとき、気づく異変。この家の部屋は薄いカーテンで締め切られているが、その薄さゆえに中のシルエットくらいは見えるようになっている。そこには二つの陰が見て取れた。誰か・・・いる?そっと扉を開けると舞の怒鳴り声が聞こえた、と同時に遮るように聞き慣れた声がした。
「なん・・・なの?」
まず、舞の驚いた顔、その次に転がる缶。そして最後に見えたのは同じく驚いている彼の姿だった。
体中から血の気がさーっと引いていくのが分かる。どこからだ?どのタイミングで帰ってきていた?・・・自分のバカさ加減を呪うしかない。ただ焦っていたんだ。さらに言えば、このまま何もかも終わればいいとさえ思っていたのに。いざ目の前に真冬が来た、ただそれだけのことで、裕也は簡単に自分の意志をなくした。真冬がこの家に帰ってくることくらい分かってるはずじゃないか・・・。
「・・・何の話?」
真冬の声色からは混乱が聞いて取れる。真冬は何処からこの話を聞いていたんだ・・・?今になってゆっくりと舞の言葉が還ってくる。―――真冬は最後までシッテハイケナイ―――
「べ、別にちょっとした口喧嘩よ…ねぇ?ゆっ…、春樹?」
舞がこの場を取り繕ってくれる、だが自分が下手に何か言ったらボロが出る。裕也は黙ったままだった。だがそういうわけにも行かないようだった。
「・・・裕也って―――」
「俺帰るわ」
その名前を遮って玄関に向かう。扉を開け、ドアを閉める。真冬が追ってくる気配はなかった。歩きながら、その頭のなかでは様々な感情が混ざり合っていた。怒り、焦り、失望・・・。おかしいことがその中に一つ。その感情のなかに『喜び』が含まれている事に気づく。それは間違いなく真冬の口から出た『裕也』という自分の名前だった。約1年ぶりに、真冬が自分の名前を呼んだ・・・。懐かしい響きだった。あのころはいつも・・・。ただその感情はすぐに『失望』へと変わった。今更俺はなにを期待しているんだ・・・。
「・・・何の話?」
それでも彼は黙ったままだった。誰かの話をしていた・・・。舞ねえと彼の言葉をもう一度考えてみる。
―――裕也は彼を勘違いしてる!―――
―――彼にとってあの子はっ―――
―――春樹はアイツを捨てたんだ!!―――
意味が分からなかった。・・・『裕也』?勘違い?そして彼が誰かをフったって?
「べ、別にちょっとした口喧嘩よ…ねぇ?ゆっ…、春樹?」
舞ねえは明らかに話を逸らそうとしている。でも真冬は舞がまた彼のことを『裕也』と呼ぼうとしていたのを見逃さなかった。
「・・・裕也って―――」
「俺帰るわ」
「ぇっ…ちょ」
声をかける間もなく彼は行ってしまった。追って問い詰めたかった。でもいま確認するなら彼じゃない、と目の前を見据える。舞ねえは怯えたように私を見つめ返す。その目から、真冬は確信した。二人には私に言えない秘密がある。そしてその秘密は『裕也』という人物が鍵を握ってる。
「・・・気にしないで、ただの、そう口げんか。さあ!早くご飯を作らなきゃね」
と足早にキッチンへ向かう背中に
「裕也って誰?」
と声をかける。その背中がぴくりと動くのを真冬は見逃さなかった。
「・・・あなたとは関係ない人よ」
と背を向けたまま話す舞ねえ。その表情はわからない・・・。
「でも舞ねえっ!さっき春樹のことゆ―――」
「あなたとは関係ないの!!」
振り向きざまに強い口調で返されなにも言えなくなる。こんなに激昂した舞ねえを見たのは久々だった。それだけに何も言えなくなってしまったのだ。
「金輪際、その話はしないで」
強い口調のまま言い切るとそのままキッチンへ向かってしまった。納得は行かなかった。だがこれ以上舞ねえが何も言わないことが分かった。それだけ重要な何かがあるはず。仕方なくなにも言わず自分の部屋へ向かう。しかし階段を上る間も着替えている間も考えていることはただひとつ、その名前だ。『裕也』ってだれなの?
何か一つのことに集中すれば、他のことは忘れられる。今は料理が私にとっての逃げ場。なのに集中できるはずなかった。真冬が裕也の存在を知ってしまったのはとても大きな痛手だった。真冬は話をほとんど聞いていたのだろう。一時は凌いだのかもしれない。だが真冬は裕也の行方を探すだろう・・・。そのうち気がつくのかもしれない。そして―――
『ピリリリッピリリリッ』
舞を現実に戻したのは携帯の着信音だった。背面ディスプレイには『春樹』という名前が表示されている。
「・・・もしもし?」
『その後どうなった?』
電話の主はいつも以上に不機嫌な声だ。
「なんとか・・・。でも確実に、真冬は存在しないあなたを追うでしょうね・・・」
『・・・』
返答がない。考えを巡らせているのだろうが、自分と同じくなにも考えつかないのだろう。だがこのまま成り行きに任せるわけにも行かなかった。また『正しい道』に戻さなければいけない。
「もうすぐ真冬が降りてくるから、掛け直すね」
『なんで・・・』
「?」
『なんで俺が・・・真冬から消えたんだろうな』
「・・・ぇっ」
『ブッ…プー、プー』
切れた電話の音が虚しく響く。料理を再開する、が手に付かない。今度は真冬の心配ではなかった。最後のアイツの言葉が、どうしても頭から離れようとしなかったのだ。