一話
二章、双子編開始です。
色々あった王宮から帰ってきて一夜。ギリギリではあるが、今日まではまだ休みの日だ。
昨日寮に戻った段階ではセドもヒューも部屋にいなかった。どうやら実家に帰っている、らしい。セドはまだわかるが、あのヒューに家族が居るというのは、なんというか想像しにくい。それくらいに彼の容姿は人間離れしている。
いつも三人で居る部屋に一人だけというのは落ち着かないが、あったことを整理するには都合がいい。
まず、僕の名前は柊命……ではない。
本名は樋通優希だ。どちらの名前にしても男女の判断がしにくいのには変わらないけど。
では柊命と言う名前がどこから来たのかというと、これは意外と単純だ。
兄さんと姉さんの姓の「柊」、それから――姉さんが、まだ僕が小さい時に「秘密の名前」として付けた、「命」という名前。
秘密の名前といっても、家の中だけでのあだ名のようなものだった。けれど姉さんはそれ以外の名前で僕を呼ぶことはほとんど無く、当時の僕はそれを不思議に思う事もなくそういうものとして受け入れていた。兄さんも呆れてはいたものの、姉さんには逆らえずそれで呼んでいたはずだ。
今にして思えば変な話だと思う。その話も姉さんに聞きたかったのだが、姉さんは術を解いた影響でまた不安定な状態。それも万全ではない状態からだったために、今度は一月ではとても済まないだろうということだった。
かかっていた術の詳細はまだ検証中だが、わかっているだけで、感覚、自意識、それから記憶に関する部分……あとは言語能力、だろうか。
感覚と自意識は判断の基準が曖昧になるためその時はわからないが、今にして思うと「何故わからなかったのか」と思うようなものも多い。姉さんの存在然り、教師役の正体然り。ただ、それのおかげで比較的スムーズにこの世界に馴染めた部分もあるのだと思う。
兄さんがこちらに来てすぐの時の話を少し聞いたが、混乱からの魔力暴走乱発、それを乗り越えても些細な違和感でなかなか素直に世間に馴染めなかったという。それでもこちらに来てすぐに一国を乗っ取ったというのだから、なんというか凄まじい。姉さんが居てもそれだったというのだから、もし僕が全く対処無しでこの世界に来ていたら、と思うとゾっとする。
記憶の……改竄とでも言うべき範囲は、おそらく地球で過ごした頃のものだけ。こちらに来る直前のことと、兄さんの事、だと思う。
特に、兄さんに関する事は念入りと言っていいだろう。ある部分は姉さんに、またある部分は、姉さん達の母親にすり替えられていた。ちなみに、姉さん達の母親はとうに亡くなっている。今思い出せば、小さいながら仏壇があったのは確かだ。
ただし、動機がわからない。術をかけた当人であるはずの姉さんが、あれだけ顔色を変えていた。演技だとしたら大したもの、と思うが、僕の知っている姉さんはそんなに器用な人ではなかったはずだ。……僕の見込み違いとか、僕の知ってる姉さんではないというのは考えられないでは無いが、兄さんが言うにはそもそも精霊は嘘がつけないという。嘘の境界というのも曖昧なものではあるが、そこまで疑い始めるとキリが無い。
手違いや間違いというには手が込んでいて悪質という印象を受けるが、それによって誰かに害があるかと言われると、地球に戻れない以上支障は無いと言わざるを得ない。精々忘れられた兄さんが可哀想とか、術者であるはずの姉さんと話がかみ合わなくなるとか、その程度である。
最後に挙げた言語能力というのは……僕はこの世界の言葉を覚えさせられたのではなく、僕の記憶している日本語を、この世界の言葉に置き換えられたのだ、ということだった。
つまり、僕にはもう日本語がわからない。
正確には「ほとんど」と付けるべきだろうか。「そんなバカな」と思ったが、兄さんが話した日本語はうまく聞き取れなかった。言われてみれば聞き覚えはあるのだけれど、英語のリスニング授業でもやっている感覚だった。
これも兄さんの時とは違うことの一つだ。兄さんもこれは流石に一から覚えるのは難しいと思ったのか、ちょこちょこっと弄ったらしい。曰く、「肉体改造」。大精霊がいるからこその特権とも言える。ただその弄り方は僕のようなものではなく、発音しやすくしたり覚えやすくしたりといった程度に留めたという。
しかし僕に対するこれは、故意なのかどうかさえわからない。この世界に馴染むという意味では、必要ではあったのだろうけど。
全体を見てわかることとしては、地球への執着を失くすこと……だろうか。帰れない以上執着しても仕方ないのは事実だが、勝手にあちこち改竄されて不満が無いはずも無い。
「……そもそも、どうしてそこまでして僕を呼んだんだろう」
僕はどうして、こんなところに。
考え込みそうになったところで、ノックも無しに部屋の扉が大きく開いた。驚いてビクリと体が跳ねる。
「たっだいまー! お、ミコトおかえり!」
「……おかえり、セド。一応ノックはして欲しかったけど」
大きな荷物を振り回すようにして部屋に入ってくるセド。鞄の持ち手がギチギチと不穏な音を立てているのがこの距離でもわかる。そんなに何が詰まっているというのか。そしてその重さを容易く振り回すセドは一体どうなってるんだ。
「ごめんごめん、誰もいないだろうと思って」
「その割には元気の良いただいまだったよね」
「……景気付けみたいな?」
「……今日くらいはゆっくりしてていいと思うけど」
荷物の整理はあるだろうけど、食堂も開いているしすることも特に無いはずだ。
「そんなこと無いだろー。荷ほどきもだけど、新しい組の確認して班員考えないとだし、授業に備えて物の確認もあるし。もう少し早く帰ってくるつもりだったんだけどなー」
ぼやきながら重い音を立てて荷物を置き、中身を一つ一つ確かめながら部屋のあちこちに仕舞い始めるセド。物は多そうだがきちんと整理されているところがヒューとの一番大きな違いだ。
「ミコトは結局いつ帰ってきたの? やることないならちょっと手伝ってくれると嬉しい」
「昨日の昼くらい……かな。疲れててすぐ寝ちゃったけど」
荷物は多く無かったが、一応王宮という場に緊張はしていたのかどっと疲れが出てしまったので、早めに夕食をとってすぐに寝てしまった。
「……ミコトの準備は?」
「……何か要るっけ?」
首を傾げているセドにつられ、同じように首を傾けて聞き返す。
「今言っただろ、新しい組確認して実習班どうするか考えたり、実習に向けて装備とかの確認したりしないと、って」
「……そういうのが必要だってことをまず知らないんだけど」
実習班はまだわからないこともないけど、装備ってなんだ。そんなのが必要な事するの?
「――と、いうことらしいんですが、学園長」
セドに話を聞いてから、僕は一も二も無く学園長室に向かった。仕事の邪魔になる可能性もあったが金銭にも関係する事は他に頼れそうな人もいない。……一応この人、義姉に当たるわけだし。
「そうだな、そういった準備が本来必要になる」
「じゃあ、お金ください」
「身内とわかった途端に金の無心か? 先が思いやられるな……」
わざとらしく肩をすくめてみせる学園長。今はもういつもの少女の姿だが、そういった動作がいちいち様になるのが不思議でならない。
「違いますよ! 兄さ……陛下から預かっているお金があるって言ってたじゃないですか! 結局まだ貰ってないです!」
「なんだ、忘れていなかったのか」
驚いたとでも言わんばかりに目を見開く学園長。
「お前は頭は悪くないが、存外抜けているところがあるようだったからな、気付いていないかと思っていた」
「ぬ、抜けてる……」
「そうでもなければ、そもそも今回の事にはもっと早く気づいていたのではないかと思うぞ」
ひ、否定しきれない。いや、多分術のせいだ、多分。
「まあ、金も渡してはやるが……最低限の物はこちらで用意しておいてある。今持ってきてやるから持っていくといい」
「ありがとうございます……」
最初から素直に渡してくれればいいのに、と思わずにいられないのは僕が狭量なのだろうか。
いつぞやのように奥の部屋から袋を抱えて持ってくる学園長。もっとも、袋の大きさはあの時の比じゃないけど。
「これで全部、のはずだ。説明がてら確認してもいいか?」
「はい、大丈夫ですよ」
抱えるようにしていた袋を仕事机と思わしきものの上に置く。子供の身長だとその高さに物を置くのは少し大変そうだ。
確認するのはどうするんだろうと思ったら、靴を脱いで備え付けの椅子の上に立ったようだ。不便そうなので床でもと思ったが、物を広げられそうなところもないので椅子に上がるために手を貸すに留めた。
一抱えほどはありそうな袋の中から出て来たのは、革製のポーチとベスト……というよりは胸当て、なのだろうか? それから、魔力を感じる丸いつるりとした半透明の塊がいくつか。ナイフが数本と、それよりも大きめの鞘に納められた小さな剣。そして最後に、お金が入っているのだろう歪な袋。恐らく中で仕切られているのだろう。
「鞄と胸当てはまあ、言うまでもないだろう。特別な品ではないが、そこそこ丈夫にはできている。馴染むまでは痛むかもしれんが、革製品は基本的にそんなものだ。ナイフもできれば常に一本は携帯しておいた方がいい。制服の内側で帯に挟むなり、靴底に仕込むなり好きにしろ」
「け、携帯ですか? 常に?」
護身用、ということだろうか。それ自体に異論は無いものの、常にとは物騒な話だ。
「常に、だ。流石に、学園内で他の生徒を害するような事をする奴がいるとは思えんが……お前の存在が周りにどう響くか、予想がつかん。中等部に上がると、魔術を日常的に使う者も増える。」
「でも、刃物は……魔術で対抗するんじゃ、駄目なんでしょうか」
授業で使うというのなら、わかる。戦闘系の授業を選んだし、実習で生き物を相手にすることもあるというのは聞いている。けれど、相手が人間になると言われると話は別だ。
仮に自分が危険に晒されたとして、それでも刃物を咄嗟に相手に向けることができるだろうか。向けるだけならまだしも、それを必要に応じて行使できるのかとなると、手に伝わるものが無い分魔術の方が怖くない。
「ユーリも通った道だ、お前の言いたいことはわからんではないが……お前の場合、魔術が下手に暴走すればそれを向けるより余程悲惨な事になるぞ。咄嗟の時に確実に制御できる自信はあるのか? ましてやお前のその外見……あー、髪の方だ。それを見てどうこうしようと思う人間も、魔術でない対抗手段がある事を知れば手を出しづらい」
言われれば、納得するしかない。確かに僕はまだ制御が甘く、咄嗟に出力を調整するといった事はできそうにない。
そして学園長の言う通り、襲われる可能性が無いわけではないのもまた事実だ。
というのも、この髪の色が問題なのだそうだ。
この世界、というかこの大陸。やけに髪の色が明るい人が多いとは思ったが、暗い髪の色は忌み嫌われていたようだ。黒い髪なんて最たるものである。
曰く、「疫病を運んでくる」「災害の前触れ」「精霊に疎まれた存在」。大陸最古の記録の時代より昔から、迫害されてきていた、らしい。
過去形になってきたのもここ十年ほど。つまり、兄さんの影響だ。国の英雄たる人物であり、大精霊に庇護されているという事実も相まって、ここ数年はそういった風潮は薄い。が、完全に消えたわけでもないらしい。王都に近く、またいわゆる陛下のお膝元とも言えるこの学園だからこそ一月も平穏に過ごせていたのであって、少し離れればまだまだ差別は根強いという。
セリアさんに言われた「黒髪の孤児なんて生き残っているはずが無い」というのはつまり、そういうことだった。
「仕込み方や手入れは、部屋のやつが知っているだろう、教えてもらうといい。人に向けずとも、あれば役立つこともある。そう気にするな」
「……わかりました。それで、こっちの短剣みたいなのは?」
「ああ、これはいいものだぞ。今のものとは比べ物にならん、替えがきかんから丁寧に扱え」
言いながら学園長はひょいと持ち上げ、僕の目の前で鞘から抜いた。