九話
「それでは、昨日のおさらいから始めましょうか。まずは基本姿勢から――」
今日も今日とて絶妙に気が散る格好の先生。今日はダンスということで動きやすさや動きの分かりやすさでも意識したのか、下半身がスッキリとしたラインのスリット入りのドレスだった。腰ほどまでありそうな隙間からは流石に直に足が見えるわけではないが、逆に透けそうなほど薄い布地越しに浮かび上がる輪郭がどうしようもなく気になる。僕は悪くない。
「顔はきちんと前を見てください。下を向いていては姿勢が乱れます」
「……すみません」
僕は悪くない。
「……動きが硬いことを差し引いても、これは、些か……」
だからリズム感無いんですってば。むしろステップ自体を早々に覚えられたことを褒めて欲しい。
苦い顔はヴェール越しに隠れてこそいるものの、唯一覗く口元だけでも十分に伝わってくる。
「まあ、他にこのような方がいないとも限りませんので、大丈夫でしょう。お相手の足を踏まないようにだけなさってください」
「善処します」
リズムがずれれば、踏まなくて済むものも容易に踏みそうな気がする。女性の足を踏んでしまうというのは僕も避けたい事ではあるし、気を付けないと。……そもそも踊る機会があるのかどうかは別として。
「そろそろお昼になりますし、丁度良いので最後に少し組んで足運びだけ確認してみましょうか」
「く、組んで、ですか?」
「足を踏まないようにするのであれば、人との合わせ方がわかっていた方がよいのではないかと」
それにしたって段階的に早いのではないだろうか。所謂社交ダンスとの違いはよくわからないが、もう少し基礎的な事をやってからやるものだと思っていた。
百歩譲ってそれを考えなかったとしても、素性のよくわからない人とくっつくというシチュエーションがあまり歓迎できない。相手がいかに綺麗な女性であっても、である。役得くらいには思うけど。
できれば穏便に断りたかったのだが、この人、結構押しが強い。生半可な理由では納得してもらえないだろうという確信があるが、一応抵抗を試みる。
「もう少し上達してからの方がいいと思うのですが」
「実際に踊るわけではありませんよ。数小節分だけです」
「足を踏んでしまっては申し訳ないですし」
「教師として来ておりますので、その程度のことは問題ありませんよ」
「体格的に貴女とというのは少し難しそうな気がします」
「そういった言葉は失礼になりますのでお気をつけください。嫌がるお気持ちはわからないではありませんが、問答をしている時間が惜しいです。さあ」
案の定一蹴されて、僕の手を取り基本姿勢をとる彼女。元々の背格好が高めであるのに加えて、踊るための胸を張った姿勢になると迫力が増す。
諦めて僕も合わせるように姿勢を整えるが、異性にここまで近寄ったことがそうそう無い僕としては、そりゃもういろんな意味で緊張の瞬間である。変な汗かきそう。
「それではいきますよ、まずはゆっくり……1、2、3、はい」
合図と同時に、一歩目を踏み出す。すぐに二歩目、三歩目と続けていくが、気が散ってしまってもうよく思い出せない。
まずい、と思った時にはもう遅く、何かを踏みつけた感触が。
「す、すみませ――!?」
すぐに謝ったはいいものの、慌てたのが悪かったのかバランスを崩して転びそうになる。思わず手を振り回して態勢を立て直そうとしたが叶わず、手に何かひっかかった状態で後ろに大きく尻もちをつく破目になった。
「いった……じゃなくて、ええと、すみません。お怪我は――」
思わず打ったところを抑えながら立ち上がって、状況を思い出して教師役の女性に声をかける。が、転んだ時にひっかけてしまったのは彼女のヴェールだったらしい。今まで見えていなかった紫紺の長い髪が、赤みの強い目が露わになっていた。
「大事ありませんよ、と言いたいところなのだがな」
先ほどまでの丁寧な口調と声音を途端に崩したその女性は、なるほど、確かに教師役として相応しい人だろう。
「これではあいつに怒られてしまうではないか、失敗した。どうしてくれる、ヒイラギ?」
「……学園長?」
いつものような不敵な笑みを見せる美しい女性は、この国の王妃であり、僕らの学園の学園長その人だったのである。
「ふむ、よく考えればこちらの姿は知らないのだから、まだ白を切り通せたか?」
「いえ、見ればわかりますよ。よく見れば魔力の量も相当ですし、むしろ今まで気づかなかったのが不思議です」
確かに学園に居る時の幼い姿しか見ていないが、姿を偽っているのは知っていたし、そもそも王宮のこんなに奥深くまで来られる人間は限られている。学園長は僕と一緒にこちらに来ていたのだし、少し考えれば正体に推測の一つや二つくらいつきそうでもある。
「この布が特別製だからな。まあ、まったく気付く様子も無いというのは流石に驚いたが」
「なんでそこまでして正体隠してるんですか……ちょっと考えればすぐにばれそうなのに」
「だが、結局お前は気が付かなかった。今回はどちらかと言えばこれの試験が目的だと聞いているからな。これはおおむね成功と言って構わんだろう」
そう言って拾い上げた布をひらひらと左右に振る。聞いている、ということから考えても、誰かに頼まれでもしたのだろうか。だとしたら陛下くらいしかこんな雑用頼んできそうな人間もいないけど。
「つまり私の意思でやったわけじゃない、三割くらいは」
「七割学園長の意思じゃないですか」
「む、それ以外の可能性もあるだろう」
「じゃあ何なんですか」
「私の意思だ」
「それ申告する意味ありましたか!?」
思わず大声を出してしまったが、学園長はどこ吹く風といった有様だ。思わずじっとりとした視線を向けてしまったところで、部屋の扉がノックされる。出ようと思ったが、こちらが何もしないうちからドアが開かれた。
「おーっすミコト、大丈夫だったかー? って何、ばれたの?」
「ばれた、まさか転ぶとは思わなかったぞ」
「転んじゃったのかみーくん……」
「……扉叩くならせめて返事を待つとかさ……」
「俺とミコトの仲だからね!」
別に見られて困るわけではないとは言え、これではノックの意味が無い。それ以外にも色々と言いたいことはあるけど。いい笑顔でそんな事言われても絶妙に反応に困るし。
そのまま昼食になだれこみ、今は部屋でセリアさんを待っているところだ。今日も魔術の事をやるのかと思ったが今の体の状態で魔術を使うのは厳禁ということで、ここに来て初の休みとなった。ついでにセリアさんが挨拶に来るということだった。
何もせずに待っているのは暇だし危険かも、ということなので本を借りて読んでいる。魔術の基礎についての本だというが、言葉はわかるもののいまいち頭にすんなり入っていかない。まず馴染みのない文字が何の支障も無く読めるという事がそもそも不思議ではあるけど。
本という割にはかなり薄いそれのほとんどは、意外と不明瞭なところが多い。まあ、魔術の歴史自体が浅いらしいし仕方ないのだろうけど……浅いというより、正確に言うならばこの国が今の国家の形になってから、とでも言うべきなのだろうか。それまでは発動の過程はおろか条件さえわかっていなかったらしい。僅か十年で学園で系統だって教えられるようになったことは驚嘆に値するのだろうが、それよりも「そんな馬鹿な」という気持ちが先に立つ。魔術による現象自体は少なくとも数百年前から観測されているというのに、どうして今日に至るまでそこまで無関心でいられたのか理解に苦しむ。
「って言っても、今の僕もそんなに変わらないのかな」
大きく感情を動かすことも、あれこれ深く考えることも無い。目の前だけ見て流されるように日々を送っている僕に、この世界の過去についてあれこれ言う資格は果たしてあるのだろうか。
そう思いぼそりと呟くと同時、急に眩暈に襲われる。まさかと思ったが、どういうわけだか魔力がじわりと滲み出ているのがわかった。
「ええ? 条件がよくわからない……」
勢いがある出方ではないが、この量ですぐに体に影響が出たことを考えれば歓迎できる自体ではない。慌てて魔力を収めることだけ考えようとするも、意識するとなかなかうまくいかず、徐々に身体が重くなってくる。
焦って深呼吸しようとした時、扉を叩く音が聞こえた。身体を動かすのが億劫で声だけで返事をすると、恐る恐ると言うべき様子でゆっくりとドアが開く。
まず隙間から見えたのはふわりと広がったドレスの裾だ。淡い青に白いフリルがついたそれはシンプルながら、安っぽさの欠片も無い優美なシルエットを描いている。次に白い手袋に包まれた手が扉のふちにかけられて、ゆっくりと開いていく。
そのまま部屋に入るのかと思いきや、彼女は背に流された銀糸の髪をさらりと鳴らしながら、顔だけで僕の様子を伺った。
「……入っていいのよね?」
「うん、どうぞ。丁度よかったよ、ありがとう、セリアさん」
何故か不安げな顔を向けて来る彼女に苦笑しながらそう返して、ソファに預け切っていた体に力を入れてしっかりと座りなおす。彼女からしたら意味がわからないだろうから不思議そうな顔をさせてしまったが、来訪者に気が向いたせいか、魔力が漏れるのは止まっていた。
一拍置いて今度はしっかりとドアを開けて、姿に似つかわしい楚々とした動作で中に入ってくる。学園内では制服姿が基本のため新鮮というか、変に緊張してしまう。
「陛下に挨拶に行ってこいって言われたから来たけれど、あなた相手にそんなにしっかりした挨拶要るかしら?」
「それ、相手に聞くことじゃ無いんじゃないかな……」
悪気は無いようだが、真正面からそう問われると「要らないんじゃない?」と返したくなる。実際同級生にそうされても困るし。
とはいえ陛下に言われて、ということは真っ向から無視するわけにもいかないだろう。いちいち報告する人もいないだろうけど、一応しておいた方がいいのかと思い立ち上がってセリアさんの正面まで来て姿勢を正す。
「この度はご足労いただき有難く存じます。生憎とまだ礼儀作法は付け焼刃も良いところでございましてお見苦しいかとは存じますが、何卒ご容赦くださいませ」
習った通り、略式ではあるが身分の高い人へ対する礼をとる。抜けきらない体の怠さにふらつきかけたが、そこは意地で堪えた。
「改めまして、国王陛下のご厚意で招かれております、ミコト・ヒイラギと申します。どうぞ宜しくお願い致します」
頭を下げたまま相手の返礼を待つ。中途半端な姿勢で辛いのだが、相手が目上である場合向こうの礼が終わるか許可がおりるまで頭を上げてはいけないらしい。ぶっちゃけそんなにもたないので、短めに済ませてくれないかなーなどと思ってしまう。
「お招きいただき有難うございます。バルシア公爵家が長女、セリア=チア・バルシアで御座います。どうぞよしなに」
すっと流れるような動作でカーテシーを披露したセリアさんは短く纏めるとすぐに切り上げる。それを確認してからようやく僕も顔を上げた。
「思ったよりもまともになってるわね」
「あ、ありがとう」
思ったよりは余計だ。けどまあ、彼女に褒められたのなら嘘ではないのだろうと思う。お世辞であっても嘘がつけるような人じゃない。
とりあえず立ったままもなんなので、ソファに座るように促す。お互いに向かい合って座ったところで、沈黙が部屋を満たした。
「……何か話しなさいよ」
「いや、何かって言われても……ええと、学園からはどうやって来たの?」
「家から迎えが来ていたから、それに乗ってきただけよ」
「そ、そっか」
再び沈黙。
「……あの、何か話でもあったの?」
「無いわよ、むしろあなたが何かあるんじゃないの?」
「え、いや、陛下から挨拶に来ると思うって言われてただけなんだけど」
「え? 私は、さっきも言ったけど陛下に挨拶に行くようにって言われたのよ。わざわざそう言うくらいだから何かあるのかと思ったわ」
三度目。
「……何もないなら聞きたいことがあるのだけれど」
「うん、何?」
聞き返すと、彼女は身を乗り出して僕の顔をまじまじと見つめる。
「……あなた、ちょっと顔色悪すぎないかしら? 真っ白というか、真っ青というか……とても健康そうには見えないわ」
胡乱気な表情でそう尋ねてくるセリアさんに、思わず固まる。
やばい、そうなるのか。そりゃ血がほとんどないのだから顔色が良いはずもない。体調だけ誤魔化せるのならなんとかなるかと思ってた。
「あー……ちょっと今、体調崩してて。すぐに治るから大丈夫」
「あなたの魔力量だからそこはあまり心配してないわ。何かあったのかと思って」
答えにくいところをピンポイントで聞かないで欲しい。
「……いや、えーと、ちょっと、魔術の訓練で暴走させちゃって」
「暴走? ああ、だから魔力がやけに少ないのね。体調が悪いなら寝ていた方がいいんじゃないかしら?」
「顔色は最悪だけど、体は大丈夫なんだよね。怪我は治してもらったし、寝てても暇だし勿体ないから」
「悪化……することはないでしょうけれど、そんな状態の人間起こしておくのも気が気じゃないのよ。魔力も体力も、寝た方が早く回復するわ」
ですよね、僕も顔を真っ青にした人がいたら応対とかいいから早く寝ろって思う。これでも昨日起きた時よりは顔色は大分よくなったんだけど、それでも具合が悪そうに見えることに変わりは無い。実際はさっきの魔力漏れのせいで体もだるいし、出来ることなら寝たい。
寝つきがあまり良くない僕としては、寝るまでに何かあると困るなあと思う。借りた本は大した厚みが無いことも手伝って、セリアさんが今去ってから就寝時間までもつかと言われると否だった。かと言ってこれ以上誤魔化すのもそろそろ難しい感じだ。
「ほら、そんな難しい顔するくらいならとっとと寝ちゃいなさい。意地張っても良い事無いわよ。なんなら寝るまで見ててあげましょうか?」
からかうようにそう口にしたセリアさんの発言を聞いているうちに、急激に眠くなってきた。
「ん、と……じゃあ、お言葉に甘えて……」
「ちょ、ちょっと、大丈夫? そんなに眠かったなら、別に私なんか待たなくても……」
さっきまでは、そんなことなかったんだけど。
意識したらというやつなのだろうか。
部屋を移ろうと立ち上がったが、あまりの眠気でふらつく。
そういえばさっき、彼女が来る前にまた魔力を霧散させてしまっていた。まさか、その影響なのだろうか。
「ご、め……も、む……り……」
「ちょっと!? ねえ、大丈夫なの!?」
かけられる声を耳にしながらも、僕の意識は落ちていった。
夕食が運ばれてきて目が覚めると、自室のベッドに寝かされていた。
申し訳なさで悶えることになったのは言うまでもない。