六話
残念ながらと言うべきか、昼前に夜会での作法を学ぶことはできなさそうだ。
結構細かいところまで直されるせいで、なかなか進まかった。なんとか及第点を貰うことはできたが、また筋肉痛になる予感がする。貴族というものは幼い時からこんなものを一分の狂いも無く身に着けるというのだから恐れ入る。あのセドでさえそれを経ていると思うと尊敬の念すら湧いた。
「区切りもよいですし、今日はここまでにいたしましょうか。あまり疲れてしまって午後の予定に障りが出ても困ります」
「そうですね、ありがとうございます」
「いいえ、お気になさらず。この調子でしたら、ここにいる間に大体の作法は身に着けられそうですね。良い事です」
指導中は最低限しか話さない彼女の口から褒めるような言葉が出るのは、たった二日の間とはいえ初めてのことだ。思わず口元が緩みそうになる自分の単純さに呆れる。
「もっとも、集中するのはあまり得意ではないようですから気は抜けませんが」
「……すみません」
集中力が削がれても仕方のない環境にあるのだから、ある程度は見逃してもらいたい。例えばあなたの胸部とか。
決して露出が多い服ではないのだが、鎖骨の下に少しだけ、窓のように素肌が見えている。そこから柔らかそうな谷間が覗いているのだ。気になるに決まってる。問題だというのならそんな服を着て来ないで欲しい。
「明日は……朝からできるのでしたら、ダンスをやってみましょうか」
「そんなことまでするんですか?」
「ええ、陛下に頼まれておりますので。何か問題でもございましたか?」
「いえ、問題は特に」
問題があるとすれば、僕のリズム感になりそうだ。
「それでは、失礼させていただきます」
「またよろしくお願いします」
彼女が部屋から出ていくのを確認してから、深々とため息をついた。
授業の内容としても疲れるが、彼女の存在自体に精神を削られる気がする。服装も大いにその一因ではあるが、それ以上になんというか……威圧感、とは少し違うのだが、無意識に身構えてしまうような圧力があるのだ。顔を隠していることや女性にしては高い身長もその一因ではあるのだろうが、彼女自身から漂う気品とでもいうべき雰囲気に圧倒される。お陰で教えられる事にいちいち真面目に取り組めるので良いといえば良いのだが、肩が凝って仕方なかった。
「あー、確かにあいつ、雰囲気あるよな」
「うん、ちょっと疲れる……」
「でもあいつ以外にできそうな立場の人間いないから……悪いけど我慢して」
「別に不満っていうわけじゃないから大丈夫。それよりもどういう立場の人なのかの方が余程気になるんだけど」
「それは秘密。一つ言っておくとすれば、人妻だからそういうのはタブー」
「そういうこと聞いてるわけじゃないから」
別にそれくらい教えてくれてもいいと思うんだけど。気になる要素が多すぎて考え始めるとキリが無い。
「そんなに気になる?」
「そりゃ気になるでしょ。顔も身分も隠してるなんて怪しすぎる」
「ですよねー。まあでも、三日もしないでわかると思うけど。そういえば、明日からセリア嬢がこっちに帰ってくるぞ」
「そうなんだ。思ったよりもゆっくりなんだね」
僕の時は移動時間で二日と言われていたけど、明日なら休みに入って四日目だ。学園で一日二日潰していたのだろうか。
「いや、彼女は普通に馬車だからな? かなり早い方だよ」
「そうなの? 僕の時は二日って聞いてたけど」
「俺が途中から迎えに行くつもりだったからな」
平然とそう言う陛下に、思わず胡乱気な顔を向けてしまうのは仕方のないことだと思う。そうほいほい出てきていい身分だとは思えない。
「しょうがないだろ、普通に行き来するなら、学園から直接来ても一週間はかかるぞ」
「……そんなに? ちょっと想像つかない」
不貞腐れたような顔でそう言われて、少し驚いた。それだと一日も滞在できなさそうだ。そんなに時間がかかるなんて全然思わなかった。
「あっちは電車とか飛行機とかあるからな……こっちは人の移動は馬車が主流。荷物だけなら鉄道モドキは運行してるけど、魔力で動かしてるからコストがかかりすぎてそんなに頻繁に動かせない」
「それにしたって、一週間もかかるの? ものすごく遠くない?」
「距離自体はそこまででもないけど、馬使う以上体力の限界とか、あとは食事とか諸々を考えたらそれくらいはかかるさ。走らせながら食べたり眠ったりできるもんじゃないから」
「ああ、なるほど……そっか」
そういう、ものなのか。異世界だということはわかっていても、日常生活でそんなに差異が無かったせいもあって、考えもしなかった。
授業以外にも自習はしているが、生活や風習についてはほとんど知らないと言っても過言ではないんじゃないんだろうか。現に僕は、普段食べているものの名前も、身に着けている衣服のちゃんとした名前さえ知らない。人々がどう生きているのかも。
どうして、こんなに知らないままで今までいられたのだろう。
どうして、ここまで無関心でいられたのだろう。
どうして、なぜ、僕はもっと、知りたがりだった、ような。そうだ、それでよく、姉さんに二人して怒られて、二人して? ちがう、ふたりなんて、ぼくは
「ミコト、落ち着け。危ない」
声をかけられて我に帰る。
僕の周りに、魔力が充満しているのがわかった。それはぐるぐると逆巻くように不規則な動きで辺りを飛び回り始めている。
こんなことは、初めてだ。ひどく焦ったことはこちらに来てから既に何度もある。けれど、こんな状態になったことは多分無い、はずだ。
どうしたらいいのかわからず固まっていると、陛下から出た魔力が抑え込むようにあたりを覆った。未だにどこか現実に戻りきらない頭のまま、辺りをを眺めているうちに魔力の動きが収まっていく。
「ごめん、なさい」
「……制御がある程度できるようになったら、連れていきたい場所がある」
真面目な顔をしてそう言った陛下に、僕は何も言えず、黙って頷いた。
翌日、結局まともな制御ができないまま終わってしまった僕は、あの時のことで考え込んでいた。
どうしてあの時に限って、あんな風に魔力が暴走したのか。どうしてこんなに無関心でいられたのか。落ち着いて考えようとしても、疲れているのかうまく考えがまとまらない。
ここに来る前の僕は、どちらかと言えば好奇心旺盛な方だった、と思う。小さな子があれこれと目につくものがどうなっているのかひたすら親に聞くように、僕も例に漏れず姉さん達にあれこれ聞いては苦笑させていた。流石に自分で調べられるようになってからは聞く事は無くなったが、辞書や本、インターネットも使ってあれこれ調べていたはずだ。もっとも、まだ小学生だった僕に理解できたのはそのごく一部であったことは事実だけれど。
中学生の間だって、時間を持て余しては意味も無く図書館へ行って時間を潰していた。分野は偏ってこそいたが、あれこれ目についた本に片っ端から目を通すのは、それはそれで楽しかったと記憶している。
高校は家から少し離れていたのでそういう時間は少し減ってしまっていたが、だからといって僕自身の性質が変わったのかといえばそうではなく、どちらかというと調べる前に自分で考えている時間が増えただけだ。未知を知るというのは、僕にとっては数少ない楽しみの一つ、だったはずだ。
それがどうして、ここへ来てこんなに、陛下曰く「淡白」になってしまったのか。
緊張、という一言で片づけるには、僕はこの世界に馴染みすぎていた。好き勝手聞いても答えてくれそうな友人もいたし、蔵書量を誇れるほどの図書館も身近にあった。出自がばれるかも知れないという思いは確かにあったが、それ以前に目に映るものに大した感慨も疑問も抱いていなかったというのが事実で、それは今も変わらない。
そして何より不思議なのが、自分がそう変質しているのではないかということを疑問に思いながら、それ自体を「だから何だ」と認識しかけているということだ。
根拠は無いが真っ当な成長によるものでも、環境の変化によるものでもない、という確信がある。それはつまり、何かが恣意的に僕をそう変えてしまったということで、それは恐ろしいものである、はずだ。
けれど今、僕がここまで考えていても浮かぶのは、それはそういうものだ、という思考停止にも似た無感動だけだ。違和感はあるものの、異常だと捉えられない。或いはこれさえも、「何か」による仕業だというのだろうか。
「……うーん」
魔術がある世界なのだから、という納得の仕方は、陛下がああ言っていた以上少し違う、気がする。
そもそも何かにこうされたと言っても、誰が何のためにこんなことをしたというのだろう。僕の好奇心が抑えられたとして、それで何かがどうにかなるとは思えない。
「今度は考え事をしていらっしゃるのですか? あまりお勉強に実が入らないようでしたら陛下にその旨をお伝えしておきますが」
「うわっ、ごめんなさ、じゃない、大変失礼致しました!」
「……まだ少し、時間がかかりそうですね」
「……すみません。今日はダンスの練習でしたよね」
昨日と同じように、返事が無いのを訝しみながらも入ってきたのだろう。呆れた様子でため息を一つ吐くと、昨日とは違いそのまますぐに授業に入るようなことはなかった。
「何がそんなに気にかかっていらっしゃるのですか?」
「いえ、大したことでは……」
「大したことで無いのなら、扉を叩けば気付かれると思いますよ。その有様では、昨晩もあまりきちんとお眠りになっていないのでは?」
図星である。
「考えるという行為それ自体は、貴い行いだと思います。ですが、このように魔力を溢れさせ身を削りながらする考え事というのは、些か問題かと」
「え?」
言われて意識してみると、なるほど確かに、昨日ほどではないが魔力が駄々洩れになっているのがわかった。普段からなんとなく漏れているというのは聞いているけれど、これはそういうレベルの量じゃない。
「これでは確かに、陛下が制御を優先なさるはずですね……まさかここまでとは」
「き、気分は大丈夫ですか? すみません、まさかこんな事になってるなんて」
「この程度でしたら。濃い魔力には慣れておりますので。それよりも、これだけの量を出して貴方は大丈夫なのですか?」
「えっと、はい、とりあえず何も」
「……流石、と言うべきなのでしょうね」
彼女はもう一度変わらぬ様子でため息をつくと、思いもよらない提案をしてきた。
「授業にならなそうですから、私からも少し制御のお手伝いをさせていただきましょう」
「え? いいんですか?」
「ええ、漏れる魔力も制御できていないということは、ほとんど手付かずなのでしょう? 何より陛下はあまり人に物を教えるのに向いている方ではありませんから」
「……そうですね」
一応、昨日習うことは習ったのだ。ところが、初日の説明っぷりはどこへ行ったのか、擬音に塗れた根性論を説きまくった挙句に匙を投げられた。なんだよグーっとやってギュッとやってピタって。
「身体から漏れてしまう分は……そうですね、体表に、薄く膜を張るような想像をしてください」
これまた難しいことを……と思ったが、陛下の説明に比べれば遥かにわかりやすい。
言われた通り、体を覆うような膜をイメージする。
「……なんだか息苦しいんですが……」
「魔力以外は通す、という前提が無いと窒息死してしまいますよ」
言うのが遅いと思うんです。
それから四苦八苦しながらもどうにか漏れる分は抑えられるようになった、らしい。まだ気が緩むと漏れるとのことなので、日常的に意識して最終的には無意識でも常に抑えていられるようにしなければならない。
「なるほど……そう説明すればいいのか」
「直接あの人に頼んだ方がずっと早かった気がします」
「俺もそう思った」
午後になって、今日も今日とて陛下が迎えに来る。当たり前すぎて最早何を言うことも無いが、学園長が怒ったりしないのだろうか。あの人はあの人で仕事がありそうだけど。
ところが、今日はいつもと向かう先が違った。
「ねえ、中庭じゃないの?」
「昨日言っただろ? 昼になんとかなりそうって報告貰ったから、予定変更だ。できるだけ早めに済ませておきたい」
「え……服はこのままで大丈夫?」
「ミコトって気にするとこズレてるよな」
そんな残念な物を見る目で見ないで欲しい。予定変更それ自体に文句を言ってもどうにもならなそうだからそう言ってるだけだ。
「服はそのままで大丈夫だ、むしろ俺が着替える」
「そうなの? っていうか、どこに行くのさ」
「普通最初にそれ聞かない? 行き先は城下町だ。まあ、視察というかなんというか。いわゆるお忍びだな」
「……それが、連れていきたい場所?」
「そう、こっちに来てから街は歩いたことないだろ?」
「一応、学園の周りの町ならあるけど」
「そうじゃなくてこう、人が生活してる街っていうか、な?」
「……まあ、無いけどさ」
昨日あの流れで、あんな顔で切り出すのだから、もっと特別なところへ行くのだと思っていた。拍子抜けだ。
一方で、この世界の街がどういう場所なのかはとても興味があった。何しろ、結局僕はこの世界に来てから学園の中と学園都市の一部、あとは王城の奥深くにしか行ったことがない。引きこもりじゃないんだから、と我ながら思わず呆れるほどに外に出ていないのだから。