雨の海と、帰るべき屋敷
あの舞踏会の夜のあと。
ディマン王室は、あの“自分に似た奴隷少年”を贈り物として大使館へ送りつけてきた。
舞踏会の時よりもさらに綺麗に整えられ、
金髪は丁寧に梳かれ、
身体も洗われ、
高価な衣服まで着せられていた。
痩せ細った身体さえ気にしなければ、どこかの貴族子弟と見間違えそうなほどだった。
少年自身は驚くほど落ち着いていた。
礼儀正しい笑みを浮かべたまま広間へ跪き、自らの処遇を静かに待っていたのである。
確かに、これは“贈り物”だった。
リタール王国の使節団が観察すればするほど、少年の容姿はハントに似ていた。
同封された手紙には、
『この奴隷の所有権は完全にハント・ノクト伯爵へ譲渡する。如何なる処分を行っても、前所有者は異議を唱えない』
と書かれていた。
大使は、それを読んだ瞬間に理解した。
ディマン王室は、“処理”を望んでいるのだと。
できれば、この世から完全に消してしまうことを。
「領地へ連れて帰れ。そして大事に扱え――少なくとも一年は生かしておけ」
「なぜです? ディマン王国は処分しろと暗に命じているんですよ。私はこんな贈り物、欲しくもありません」
大使は鼻を鳴らし、水煙草を深く吸い込んだ。
白煙が鼻と口からゆっくり吐き出される。
「ディマン王国の望み通りに動く必要が、どこにある。昔は属国だったとしても、それはもう遠い昔の話だ」
彼は冷ややかに続けた。
「信じろ。こちらが期待通りに少年を殺せば、今度は“王室から贈られた高価な贈答品を理由なく破壊した”と言われるだけだ」
年嵩の外交官も頷いた。
「お前たちは似すぎている。連れて帰れば、いくらでも使い道はある。仮に使わなくとも、絶対に他人へ渡すな」
別の同僚は悪意混じりに笑った。
「ヴィクトリア様のために貞操を守り続けるつもりなら、その少年をヒルダ夫人へ贈ればいい。子供ができても、お前に似るぞ」
周囲から笑い声が起こった。
だがハントの表情を見た途端、その笑いは徐々に消えていく。
広間に沈黙が落ちた。
ハント自身、自分がどんな顔をしていたのか分からない。
ただ――ヒルダが他の男と共にいる姿を想像した瞬間、胸が引き裂かれるように痛んだ。
空が崩れ落ちるようだった。
ヴィクトリアが他人へ嫁ぐと知った時でさえ、こんな感情は覚えなかった。
大使は重々しく息を吐く。
「……お前な。正直、私は口を出すつもりはなかった。だが、お前の母君は私の妻の友人だった」
彼は静かに続けた。
「ヴィクトリア様はブランティ公爵の一人娘で、ディマン王太子の第一側妃だ。お前の罪悪感も同情も必要としていない」
「もしヒルダ夫人を愛しているなら――これを機に帰れ。ちゃんと向き合え。自分の気持ちを話して、一緒に蜜月でも過ごしてこい」
「休暇が終わったら、こちらで文書仕事中心に配置換えしてやる。この任期だけ耐えろ。そして帰って領地を治めろ」
ハントは、大使の助言に従った。
荷物をまとめ、奴隷少年を伴って、リタール王国へ戻る船へ乗り込んだ。
ディマン王国へ来た時と同じく、彼はすぐ重度の船酔いに苦しみ始めた。
胃は捩れ、
胸はざわつき、
吐き気が止まらない。
食べてもすぐ吐く。
水を飲んでも吐く。
激しい嘔吐のせいで身体は衰弱し、結局ほとんど寝台から動けなくなった。
窓の外には、
灰色の海と、
絶え間ない雨だけ。
閉ざされた船室は、まるで小さな牢獄のようだった。
そんな中、“醜聞を逸らすための贈り物”である奴隷少年は、驚くほど役に立った。
彼は黙々とハントの世話をした。
厨房から果汁や栄養飲料を運び、
吐瀉物や排泄物を片付け、
日に二度は船室を掃除する。
そのおかげで、ハントは最低限清潔な航海生活を送ることができていた。
ハントは気づかなかった。
少年が、机に積まれた恋愛小説を、いつも興味深そうに眺めていたことに。
気を紛らわせるため、ハントは恋愛小説へ完全に没頭した。
特に『初夜に「これは白い結婚だ」と言われたのに、今では旦那様に溺愛されています!?』シリーズ。
彼はついに最終巻まで読み終え、大団円に満足していた。
本当はヒルダから届いている手紙を開くつもりだった。
だが、それも先延ばしになっていた。
どうせ帰れば直接話せるのだ。
今さら手紙を読む必要などない。
それに――
ハントには、ヒルダがメアリーへ重なって見えていた。
冷たい夫に傷つけられながらも、
優しく寄り添い、
最後には愛で相手の心を溶かしていく女性。
新婚初夜に拒絶され、
独り屋敷へ残されても、
なお夫へ忠実であり続けた女性。
ハントは心の底から願っていた。
ヒルダの待つ“家”へ帰ることを。




