6 サルームから
駱駝が三頭のみ。歩兵は置いてきたようだ。真ん中の駱駝に乗った兵士が松明を掲げている。全員、長剣を抜刀している。
「あの女だけを狙え!」
右側の駱駝の男が命令する。兵士ではない。ハドラム風の黒白のハブル。
(ハーリル!)
「隣国の王子じゃ! 殺すな!」
シャールは、アシュタルテに向かって叫んだ。
アシュタルテとナディヤの竜駝は裏路地の左手に寄った。竜駝の手綱は、いつのまにか前に座るナディヤの手に移っていた。竜駝の首に隠れるように、背を丸め頭を引っ込めて操縦している。
向かってくる駱駝の兵たちは右、つまりシャールとキリクの竜駝の正面に寄る。
(やはり、狙いはわたしか!)
キリクとシャールの竜駝も左に寄り、アシュタルテたちの背後に隠れた。ハーリルたちの駱駝が近寄ってきた。
ハーリルの長剣とアシュタルテの金色の剣が、すれ違いざまに打ち合った。左手が使えないのか、アシュタルテは右手一本。対するハーリルも駱駝の手綱を握っているので、剣は片手だ。
ハーリルが反動でのけ反る。整った顔に驚きの表情が浮かぶ。アシュタルテの剣が想定外に重かったのだろう。
振り返ったアシュタルテの手から剣が飛んだ。
剣はハーリルの駱駝の首に突き刺さる。貫通したかと思いきや、反対側からは出て来ない。細い足をビーンッと伸ばし、硬直して横倒れになる駱駝から、ハーリルが隣の駱駝に跳び移る。
その間に、キリクとシャールの竜駝もハーリルたちの横をすり抜けていた。
振り返ったシャールは、遠ざかるハーリルの顔を見た。王宮内では見たことのなかったハーリルの表情に、シャールは衝撃を受けた。
鼻をつまんで不快そうに顔を歪め、汚いものを見るような冷たい視線を向けていた。
「ムシュフシュを置いてきちゃったよ?」
「前の獲物は食べるところが無かったから怒っている。駱駝の脂肪で満足したら、自力で帰ってくるだろう」
隣の竜駝から、ナディヤとアシュタルテの会話が聞こえる。
「いいなあ、わたしもムシュフシュを相棒にしたい」
「おまえには無理だ、空腹の時に食われてしまう」
「アッシュは何で食われないの?」
「わたしの体は食用には適していないからだ」
「……不味いってこと?」
竜駝が通れそうな建物の隙間の路地を見つけると、シャールたちは方向を変えて一列で通り抜け、裏路地から脱出した。
シャールたちを乗せた竜駝はなるべく人気のない通りを走り、サルームの東の門を目指した。
まだ深夜ではないので、人の気配がある。時折、油皿に灯した明かりの横を通り過ぎたが、男たちが集まって談笑していた。王宮の火事の噂はまだ広まっていないのか、あまり盛り上がっている様子はなく、のんびり水煙草をくゆらせたり、お茶を楽しんだりしている。
涼しい夜に語り合うのはよくあることで、シャールも王になる前は王宮外の大厦の一つに住み、親戚の女たちの集まりに顔を出すことがあった。ただし女たちは室内や中庭で語り合い、外で集まるのは男たちと決まっていた。
「門番がいるぞ、どうする?」
背中を預けるキリクに、シャールは振り返らずに尋ねた。
サルームでは、高層の建物の並びがそのまま城壁の役割を果たしている。街の外縁では、隣り合う建物の隙間が日干しレンガや石積みで塞がれているため、そこから外へ出ることはできない。街の出入口は、曲がりくねりながらも街を十字に貫く大通りに繋がる、東西南北の大門だけである。
「街に入る時に金を払っている。出るのは自由さ」
「え、そうなのか?」
以前シャールが視察した時は、もっと厳しく監視している様子だったが、実際は違うらしい。その金も正規の通行税か怪しいものだ。
「先ほどの兵たちが手配していたら面倒になるな……」
(異国の王子の命令を聞くとは思えないが……)
不安を抱えたまま東の大門に到着したが、シャールたちは何事もなく通り抜けた。
松明は灯っていたが、門は開いたままで人影もない。
「弛み過ぎだ」
簡単すぎて、思わず声が漏れた。
「戦争もないんだし、この方が気楽でいい。無料ならもっといいんだが」
門の外に出てホッとしたのか、キリクの声は晴れやかだった。
前回の戦争は、シャールの兄たちが起こした王位継承を争う内乱で、七年前になる。他国との本格的な戦争となると三十年以上遡ることになり、シャールの生まれる前のことだった。内乱は小規模だったので、シェルバの民にとっては総じて平和な時代が続いていた。
ワディ・アルマカのダムの水による灌漑農業、特に小麦の生産と、東方からハドラムを経由して入ってくる香料を西方の国々へ中継する貿易の二本柱で、シェルバは繁栄を誇っていた。サルームの人口は増える一方で、門の中には収まりきらず、門の外にも平屋や二階建ての建物が立ち並んでいる。面積だけで見ると、もはや門内よりも門外の市街地のほうが広いだろう。
門外の市街を抜けると、一面に畑が広がっている。夜なので黒く見えるが、昼間は小麦の穂が揺れる様が黄緑色の毛足の長い絨毯のようで、さぞ鮮やかで美しいことだろう。
「キリク、水を使わせてくれ」
シャールたちを乗せた竜駝は畑の中の畦道を走っていた。道に沿って細い用水路があり、チョロチョロと僅かな水が流れている。
ワディ・アルマカから流れる川の水は、サルームに近い中流域で農地の水路と一体化し、見分けがつかなくなる。水路は細分化され、木の葉の葉脈のように農地の隅々にまで行き渡っている。さらに下流域では、農地が水を吸い尽くし、東のアズラ砂漠に届くことなく川は姿を消す。
追手が来ないと安心した途端、シャールは喉の乾きと、それ以上に全身から立ち昇る不快な臭いに耐えきれなくなっていた。
「畑の持ち主に見つかると面倒だ」
先を急ごうとするキリクに、シャールは語気を強めた。
「わたしが許す、止めろ」
威厳のある声に、キリクは思わず竜駝の手綱を引いた。意外そうにシャールを見下ろす。
畑の角には大きな水甕が埋めてあり、用水路の水が流れ込んでいた。水甕から溢れた水は下流の用水路へ流れていく。キリクはそこへシャールを案内し、水甕の重い石の蓋をずらした。
畑に水を撒く時に使う素焼きの手桶が、石蓋の上に伏せて置かれていた。
手桶に掬った水を飲み、まず手を洗う。
迷ったが、これ以上汚れた服を着ていることが耐えられなかった。
手桶を石蓋の上に置き、服を脱ごうとした時、バシャバシャと水音がした。
顔を上げると、水甕の反対側で、既に裸になったキリクが体を洗っていた。
(仕方ない……)
「こっちを見るなよ」
「わかってるって」
キリクは横を向いたまま返事をした。彼に背を向けて、今度こそ服を脱ごうとした時、竜駝の上に留まって、こちらを眺めているナディヤとアシュタルテが見えた。
「アッシュも洗ってきてよ。ずっと臭かったわ」
ナディアがわざとらしく鼻をつまむ。
「自分が排出したものなのに、何故そんなに気にするのだ?」
「自分のじゃねえ、他人のウンコだ」
キリクが体を洗いながら答えた。
「自分のウンコなら気にならないか?」
「いや、そういうわけじゃねえが……他人のよりはマシかな……」
水甕の水は冷たく、汗だくで火照った体をサッパリ静めてくれた。
俯いて髪を絞り、何気なく片手を伸ばして、シャールはハッと気付いた。
普段なら、水浴びの後には侍女が体を拭く布を差し出してくれるし、着替えを持って待っていてくれる。だが、今は侍女がいない。それどころか着替えがない。
キリクの様子を窺うと、水甕の石蓋を地面に置き、そこで全裸のまま自分の服と履物を洗っていた。
「わたしのも頼む」
シャールがキリクの目の前に汚れた自分の服を放り投げると、
「おいおい、どこのお姫様だよ」
キリクが嘲るように笑ったので、シャールは顔がカッと熱くなった。
「わかった、自分で洗う!」
自分が国王であることは秘密にしなくてならない。ハーリルに命を狙われた。ジャーフィルも信用できない。王宮には、もう戻れない。
(平民として隠れるには、洗濯ぐらいできなくては……)
見かねたナディヤが、自分のハブルを貸してくれた。ガサついた生地が素肌にチクチクするが、この際仕方ない。ハブルを脱いでチャフィーブ姿になったナディヤは、想像通り十代前半の少女に見えた。小柄で顔が小さい。暗くて目の色まではわからないが、きれいな木の実の形をしていた。明るい色の長い髪を後ろでまとめている。
シャールは、水甕の石蓋の上で、キリクの真似をして自分の服を洗ってみた。
「ヘタクソ」
キリクが呟く。
「シャリマさんの服は上等だから、そんなに強く擦ったら穴が開いてしまいます」
ナディヤが横に来て、戸惑うシャールの代わりに服を洗ってくれた。擦るのではなく、捏ねるような手付きだった。
王宮ではシャールはもちろん、侍女も洗濯などしない。それは下働きの女の仕事だった。面倒だが誰でもできる仕事。そう思っていた。
(情けない……)
一夜のほんの僅かな間に、シャールの立場はずいぶん変わってしまった。
ハーリルの鼻を歪めた顔を思い出す。
「ふふふふふ」
突然シャールが笑い出したので、キリクとナディヤがギョッとした顔で振り向いた。
「あはははは」
何故か笑いが止まらない。
ハドラムは香料の産地。ハーリルは特に匂いに敏感で、香料や精油を巧みに調合していた。裏路地の臭いは、さぞかし不快だっただろう。だが、おかしいのはそこではない。
(あの男を捨てたはずが、捨てられたのはわたしだったか!)
あまりに情けなくて、シャールは笑わずにはいられなかった。
水甕の向こう側では、ボロボロになったハブルだけを脱ぎ捨て、アシュタルテが服を来たまま水を浴びていた。彼女の右の二の腕に、いつの間にか金色の腕輪が戻っていた。
奇妙な質感の真っ黒な服は、貼り付いたように体の線を露わにしていたが、女の色気は感じさせなかった。肩幅の広さと平らな胸のせいかもしれないが、そもそも本当に女なのか?
人ではない、と言っていた。ならば何なのか? どうしてキリクたちと共にいるのか? 何故そんなに強いのか?
「なぜ王宮に忍び込んだのじゃ?」
洗濯を終えて、濡れた服を身に付けたキリクに、シャールが声を掛ける。
「言っただろ? 女王様に会うためだって」
「会ってどうする?」
「お願いしたいことがあって」
「願い事?」
シャールは再び、請願日の偽予言者を思い出した。キリクの顔が、その男と似ていることも。
「……ダムの放流のことか?」
「あれ? サリマの請願を知ってんの?」
「請願の時も陛下の近くに控えているのじゃ。陛下の第一の侍女だからな。あの男はサリマと言ったか。おまえは、あの男の何だ?」
「弟だ。誘拐して脅せば言うことを聞くと思ってさ」
背筋がゾクリとする。結果的に誘拐されてしまっている。
「おまえは信じているのか? おまえ兄の、その……」
「予言は信じてるさ、今まで何度も当ててるからな。さあ、もう行こうぜ。明日も仕事がある」
先に竜駝に跨ったキリクが、シャールに手を貸して、引っ張り上げる。
振り返ると、サルームの街とその中心にそそり立つ王宮が見えた。火事は鎮火されたようで、王宮の上層階は暗かったが、白い煙が立ち昇り、月の顔を汚していた。




