4 黒い衛兵
悲鳴をあげたシャールだが、すぐにキリクの腕の中に落ち、キリクはふらついて尻もちをついた。
薄赤い光が、その場をゆらゆらと照らした。今や遠くになった休息所の窓から、炎が吹き出している。
そこは城壁に接した大厦の屋上だった。既にその高さまで降りていたのだ。
気付けば、シャールはキリクの腹の上に馬乗りになっていた。
「情けない! 男が女ひとり受け止められんとは!」
声を荒らげたシャールの頭を、キリクが押さえつける。
シャールの頭のあった場所を、短剣が通り過ぎた。
短剣を握った腕の、肘から先がボトリと落ちる。しかし血が吹き出ることはなく、没薬の甘く煙い香りが立ち昇った。
「ヒッ!」
腿の上に落ちた腕を払い除けたシャールは、その軽さに驚いた。まるで麦藁の束のようだ。
背後から黒い衛兵の腕を切断したアシュタルテが、着地と同時にしゃがんだ姿勢のまま剣を跳ね上げ、衛兵の腹を切り裂いた、ように見えた。だが、まるで刃風に飛ばされるように衛兵の体はフワリと流れ、剣を避けて後ろへ漂った。
アシュタルテが表情を変えずに首を傾げる。
「さっさと逃げよう! 見つかったら、火事の犯人にされちまう」
大厦の屋上の縁から下を見下ろし、キリクが言った。
下の通りは繁華街なので、人が大勢集まって来ている。王宮の上層階は、サルームのどこからでも見える。夜とはいえ寝静まる時刻ではなく、かえって夜ゆえに火事は目立った。
(兵が……)
王宮の門の方から、歩兵の一団が小走りにやってくるのが見える。この大厦は十階ほどの高さだが、下の通りは灯りも多く、兵士たちの顔まで見えた。
兵士たちの後ろに一頭、駱駝に乗った男が見える。鞍を縁取る豪華な房飾り、ハドラム風の黒白がはっきりしたハブル。腰には長剣を下げている。
男が見上げたので、シャールは顔を引っ込めた。
(ハーリル……!)
証拠はない。だが彼がシャールの命を狙ったのなら、付き従うあのシェルバ兵たちは、ハドラム兵の偽装かもしれない。サルーム各所の隠れ家に大勢のハドラム人を囲っていることは、侍女のハウリヤからの伝書でわかっている。
「兵がこの建物に入ったぞ!」
(どうする? ジャーフィルを頼るか?)
だがハーリルとの縁談は元々ジャーフィルが持ってきた話だ。ジャーフィルも信じられない。
「あんた、何やったんだ? 火事もあの化け物も、絶対あんたを殺しにかかってるだろ」
「……王宮の秘密を知ってしまったのじゃ」
「秘密って?」
「言えぬから秘密じゃ。聞けば、おまえも殺されるぞ」
シャールは適当な嘘でごまかした。
大厦の屋上の隅に黒い衛兵が蹲り、こちらの様子を伺うようにユラユラ揺れていた。火事の赤光に照らされて、その姿はもう黒くない。ただのシェルバの兵装だ。だがドゥループで覆った顔の目元には、真っ黒い穴が二つ空いている。
「その女を連れて行くのか?」
衛兵に視線を向けたまま、アシュタルテが言った。
「うーん……火事から助けたのに、ここで見殺しってのも……。だが、おれたちは下の兵隊には会いたくない。兵隊たちを頼るか、おれたちと一緒に来るか、今すぐ決めてくれ」
(ハーリルを信じたい……)
今さらだが、そう思ってしまう。体を重ねた時の快感がふと蘇り、ゾクッとする。
(こんな、怪しげな侵入者たちを信用できるわけがない。だが、彼らはわたしを見殺しにしなかった……。下から来るのがハドラム兵なら、わたしは助からない)
シャールは迷いを振り切り、キリクが差し出した手を握った。大きくて骨張った固い手だった。
「名前は?」
「シャ……シャリマじゃ」
「アッシュ、シャリマさんも守ってやってくれよ」
「わたしが守るのはおまえだ。だが余力があれば、ついでにその女も助けよう」
(国王のわたしが、ついでか)
「こっちだ!」
キリクがシャールの手を引いて走る。屋上の下階へ通じる出口とは反対の方だ。
そちらには何もない。兵が来るので階段が使えないのは分かるが、また綱で壁を降りるのか?
「跳ぶぞ」
「跳ぶ?」
「二キュビぐらいだから、子供でも跳べる距離だ」
(まさか!)
足を止めようとするシャールを、キリクが引っ張る。
「おれが合図したら、思い切って踏み出せばいい。躊躇したら二人とも落ちる」
「うう……」
サルームの建物は密集しており、隣り合う建物間の路地は概ね狭い。飛び越えられない距離ではないだろうが、ここは十階建ての大厦の屋上だ。隣に届かなければ死ぬ。
(えーいっ! あの壁を下りてきたんだ、やってやる!)
「さあ、行くぞ!」
屋上の縁が目の前に迫る。
「今だ!」
キリクの手を握りしめたまま、シャールは屋上の縁を蹴った。
怖くて下を見られない。
ただ思い切り、前へ!
足が着かない!
シャールは恐怖で息が止まりそうだった。
だが次の瞬間、羊皮の履物の爪先が固いものに当たり、躓いて転びそうになったところを、またもキリクに受け止められた。
振り返ると、一階分上の高さに今までいた隣の屋上が見える。そこからアシュタルテが跳び下りてくるところだった。
「た、高さが違うなら、先にそう言わぬか……!」
隣の屋上の今までいた場所に、黒い衛兵の姿が浮かぶ。機会を窺っているのか、あるいは腕を切られて躊躇しているのか、すぐに襲ってくる様子はない。
「次は同じ高さ、その次はまた一階分下がる」
キリクが再びシャールの手を引いて走り、更に隣の建物へ跳び移った。
高さが変わらなかったこともあり、今度は少し気持ちに余裕があった。そのまま止まることなく、今度は方向を変えて走る。
またキリクの合図で跳ぶ。
一階分下がったが、分かっていたことなので、慌てることなく着地することができた。
そうやって次々と建物の屋上を跳び移り、高さを下げながら、徐々に王宮から離れていった。繁華街も火事の炎も遠ざかり、周囲は暗くなったが、目は慣れてきた。
息が切れて走るのが辛くなった頃、キリクが立ち止まった。
「どこまで行くのじゃ?」
荒い息を吐きながら、シャールが尋ねる。手を握ったままなのに気付き、振り払う。
「路地に竜駝を留めてある」
「竜駝? サルーム内に竜駝を持ち込むのは違法じゃぞ?」
「人の多い所へは連れて行かないさ。でも、それ以外なら普通に出入りしてるぞ。ネズミを食べるから、街の連中も気にしちゃいない」
平然と法が破られているが、それが街の現実なのだろう。
「竜駝に乗って、その先はどうする?」
言いながらも、シャールは少し怖気付いていた。竜駝は凶暴なので『遊牧の民』しか扱えないと聞く。もちろん今まで乗ったことはない。
キリクが屋上の縁へ向かって歩く。この建物の高さは四、五階ほどのはずだ。
「天幕に帰る。これを超えれば、あと少しだ」
「おい、十キュビはあるぞ!?」
キリクの後から真っ暗な路地を覗き込み、シャールが言った。
何か、鼻を突く臭いがする。
「おまえは跳び超えられるのか?」
「アッシュに手伝ってもらえば何とか、な」
振り返ったシャールの眼前に、突然アシュタルテの白い顔が現れた。
「ぐえ」
腹を抉られるような感触。アシュタルテの硬い両腕が、それぞれキリクとシャールをガッチリと抱えて宙に飛び出していた。
シャールの目には、空中でアシュタルテの背に追いすがり、飛びかかってくる黒い衛兵の姿が見えた。残った左手に長剣を持ち、今にも振り下ろそうとしている。
アシュタルテの体がガクンと傾く。長剣の切っ先が、彼女の背中に届いたのだ。
シャールとキリクは空中に投げ出された。
アシュタルテは振り返って黒い衛兵の足を掴み、路地の闇の中に落ちていく。




