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アシュタルテと砂漠の女王  作者: ヤマモト マルタ
第一章 女王
4/8

4 黒い衛兵

 悲鳴をあげたシャールだが、すぐにキリクの腕の中に落ち、キリクはふらついて尻もちをついた。


 薄赤い光が、その場をゆらゆらと照らした。今や遠くになった休息所の窓から、炎が吹き出している。


 そこは城壁に接した大厦たいかの屋上だった。既にその高さまで降りていたのだ。


 気付けば、シャールはキリクの腹の上に馬乗りになっていた。


「情けない! 男が女ひとり受け止められんとは!」


 声を荒らげたシャールの頭を、キリクが押さえつける。


 シャールの頭のあった場所を、短剣シャンビヤが通り過ぎた。


 短剣シャンビヤを握った腕の、肘から先がボトリと落ちる。しかし血が吹き出ることはなく、没薬ミルラの甘く煙い香りが立ち昇った。


「ヒッ!」


 ももの上に落ちた腕を払い除けたシャールは、その軽さに驚いた。まるで麦藁の束のようだ。


 背後から黒い衛兵の腕を切断したアシュタルテが、着地と同時にしゃがんだ姿勢のまま剣を跳ね上げ、衛兵の腹を切り裂いた、ように見えた。だが、まるで刃風に飛ばされるように衛兵の体はフワリと流れ、剣を避けて後ろへ漂った。


 アシュタルテが表情を変えずに首を傾げる。





「さっさと逃げよう! 見つかったら、火事の犯人にされちまう」


 大厦たいかの屋上の縁から下を見下ろし、キリクが言った。


 下の通りは繁華街なので、人が大勢集まって来ている。王宮の上層階は、サルームのどこからでも見える。夜とはいえ寝静まる時刻ではなく、かえって夜ゆえに火事は目立った。


(兵が……)


 王宮の門の方から、歩兵の一団が小走りにやってくるのが見える。この大厦たいかは十階ほどの高さだが、下の通りは灯りも多く、兵士たちの顔まで見えた。


 兵士たちの後ろに一頭、駱駝らくだに乗った男が見える。鞍を縁取る豪華な房飾り、ハドラム風の黒白がはっきりしたハブル。腰には長剣シャムシェールを下げている。


 男が見上げたので、シャールは顔を引っ込めた。


(ハーリル……!)


 証拠はない。だが彼がシャールの命を狙ったのなら、付き従うあのシェルバ兵たちは、ハドラム兵の偽装かもしれない。サルーム各所の隠れ家に大勢のハドラム人を囲っていることは、侍女のハウリヤからの伝書でわかっている。


「兵がこの建物に入ったぞ!」


(どうする? ジャーフィルを頼るか?)


 だがハーリルとの縁談は元々ジャーフィルが持ってきた話だ。ジャーフィルも信じられない。


「あんた、何やったんだ? 火事もあの化け物も、絶対あんたを殺しにかかってるだろ」


「……王宮の秘密を知ってしまったのじゃ」


「秘密って?」


「言えぬから秘密じゃ。聞けば、おまえも殺されるぞ」


 シャールは適当な嘘でごまかした。


 大厦たいかの屋上の隅に黒い衛兵がうずくまり、こちらの様子を伺うようにユラユラ揺れていた。火事の赤光に照らされて、その姿はもう黒くない。ただのシェルバの兵装だ。だがドゥループで覆った顔の目元には、真っ黒い穴が二つ空いている。


「その女を連れて行くのか?」


 衛兵に視線を向けたまま、アシュタルテが言った。


「うーん……火事から助けたのに、ここで見殺しってのも……。だが、おれたちは下の兵隊には会いたくない。兵隊たちを頼るか、おれたちと一緒に来るか、今すぐ決めてくれ」


(ハーリルを信じたい……)


 今さらだが、そう思ってしまう。体を重ねた時の快感がふと蘇り、ゾクッとする。


(こんな、怪しげな侵入者たちを信用できるわけがない。だが、彼らはわたしを見殺しにしなかった……。下から来るのがハドラム兵なら、わたしは助からない)


 シャールは迷いを振り切り、キリクが差し出した手を握った。大きくて骨張った固い手だった。


「名前は?」


「シャ……シャリマじゃ」


「アッシュ、シャリマさんも守ってやってくれよ」


「わたしが守るのはおまえだ。だが余力があれば、ついでにその女も助けよう」


(国王のわたしが、ついでか)


「こっちだ!」


 キリクがシャールの手を引いて走る。屋上の下階へ通じる出口とは反対の方だ。

 そちらには何もない。兵が来るので階段が使えないのは分かるが、またつなで壁を降りるのか?


「跳ぶぞ」


「跳ぶ?」


「二キュビぐらいだから、子供でも跳べる距離だ」


(まさか!)


 足を止めようとするシャールを、キリクが引っ張る。


「おれが合図したら、思い切って踏み出せばいい。躊躇ちゅうちょしたら二人とも落ちる」


「うう……」


 サルームの建物は密集しており、隣り合う建物間の路地は概ね狭い。飛び越えられない距離ではないだろうが、ここは十階建ての大厦たいかの屋上だ。隣に届かなければ死ぬ。


(えーいっ! あの壁を下りてきたんだ、やってやる!)


「さあ、行くぞ!」


 屋上のへりが目の前に迫る。


「今だ!」


 キリクの手を握りしめたまま、シャールは屋上のへりを蹴った。


 怖くて下を見られない。

 ただ思い切り、前へ!





 足が着かない!


 シャールは恐怖で息が止まりそうだった。


 だが次の瞬間、羊皮の履物バブーシュの爪先が固いものに当たり、つまずいて転びそうになったところを、またもキリクに受け止められた。


 振り返ると、一階分上の高さに今までいた隣の屋上が見える。そこからアシュタルテが跳び下りてくるところだった。


「た、高さが違うなら、先にそう言わぬか……!」


 隣の屋上の今までいた場所に、黒い衛兵の姿が浮かぶ。機会を窺っているのか、あるいは腕を切られて躊躇ちゅうちょしているのか、すぐに襲ってくる様子はない。


「次は同じ高さ、その次はまた一階分下がる」


 キリクが再びシャールの手を引いて走り、更に隣の建物へ跳び移った。


 高さが変わらなかったこともあり、今度は少し気持ちに余裕があった。そのまま止まることなく、今度は方向を変えて走る。


 またキリクの合図で跳ぶ。


 一階分下がったが、分かっていたことなので、慌てることなく着地することができた。


 そうやって次々と建物の屋上を跳び移り、高さを下げながら、徐々に王宮から離れていった。繁華街も火事の炎も遠ざかり、周囲は暗くなったが、目は慣れてきた。


 息が切れて走るのが辛くなった頃、キリクが立ち止まった。


「どこまで行くのじゃ?」


 荒い息を吐きながら、シャールが尋ねる。手を握ったままなのに気付き、振り払う。


「路地に竜駝ティンタムを留めてある」


竜駝ティンタム? サルーム内に竜駝ティンタムを持ち込むのは違法じゃぞ?」


「人の多い所へは連れて行かないさ。でも、それ以外なら普通に出入りしてるぞ。ネズミを食べるから、街の連中も気にしちゃいない」


 平然と法が破られているが、それが街の現実なのだろう。


竜駝ティンタムに乗って、その先はどうする?」


 言いながらも、シャールは少し怖気付いていた。竜駝ティンタムは凶暴なので『遊牧の民(ワラフ)』しか扱えないと聞く。もちろん今まで乗ったことはない。


 キリクが屋上の縁へ向かって歩く。この建物の高さは四、五階ほどのはずだ。


天幕テントに帰る。これを超えれば、あと少しだ」


「おい、十キュビはあるぞ!?」


 キリクのあとから真っ暗な路地をのぞき込み、シャールが言った。


 何か、鼻を突く臭いがする。


「おまえは跳び超えられるのか?」


「アッシュに手伝ってもらえば何とか、な」


 振り返ったシャールの眼前に、突然アシュタルテの白い顔が現れた。


「ぐえ」


 腹をえぐられるような感触。アシュタルテの硬い両腕が、それぞれキリクとシャールをガッチリと抱えて宙に飛び出していた。


 シャールの目には、空中でアシュタルテの背に追いすがり、飛びかかってくる黒い衛兵の姿が見えた。残った左手に長剣シャムシェールを持ち、今にも振り下ろそうとしている。


 アシュタルテの体がガクンと傾く。長剣シャムシェールの切っ先が、彼女の背中に届いたのだ。


 シャールとキリクは空中に投げ出された。


 アシュタルテは振り返って黒い衛兵の足をつかみ、路地の闇の中に落ちていく。



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