相対性絶対ボケ
舞台中央に、ピンと背筋を伸ばし、まるで哲学者のように一点を見つめるボッケが立っていた。その隣には、早くも眉間に皺を寄せ、諦めにも似た表情を浮かべたツッコがいる。二人は軽く一礼した。
「どうもー! 『謎だらけ』ですー! よろしくお願いしまーす!」
ツッコの陽気な声が響く中、ボッケは客席をじっと見つめていた。その瞳には、舞台上の観客ではなく、遥か彼方の宇宙が映っているかのようだった。
「いやー、皆さん、僕らがこの舞台に立ってるように見えてますけどね…」ボッケは静かに語り始めた。「実は今この瞬間も、とんでもないスピードで宇宙を移動してるんですよ? 地球がグルグル、太陽の周りをブンブン、銀河系がグワーッと…」
ツッコは額に手を当て、深い溜め息をついた。「はい、出た。もうそれ何回聞いたか。宇宙規模の壮大な話から入るのやめてくれる? お客さん、置いてけぼりだろ」
「いやいや、ツッコ。僕らって、実は一秒ごとに何万キロも移動してるんですよ?」ボッケは構わず続けた。「そう考えたら、この舞台の端っこに立ってるだけで、ツッコより数ミリ速く動いてるんですよ! それなのに、なんでギャラ同じなんですかね!?」
「知らねーよ! 数ミリで文句言うな! 細かすぎんだよ!」ツッコの声が、舞台に響いた。
ボッケは、そんなツッコの苛立ちにも気づかないかのように、熱を帯びて語る。「しかもさ、ツッコと僕とじゃ、時間の進み方も違うんだぜ? 僕がボケ考えてる2秒と、ツッコがツッコミ待ってる2秒じゃ、相対的に僕の方がゆっくり進んでるから、僕の2秒はツッコにとって永遠に近い…もう、生まれては死ぬを繰り返して悟り開けるよ!」
「大袈裟なんだよ! 違う意味で悟りが開けたわ!」ツッコは顔をしかめた。
「あとね、ツッコ」ボッケは不意に、思い出したように言った。「最近気づいたんだけど、この間の朝飯の卵焼き、めっちゃ美味かったじゃん? でも夜に食べた残りの卵焼き、なんか全然味が違ったんだよな。これってさ、時間の進み方が相対的に変わったせいで、卵焼きの分子の運動エネルギーが違って、味が変わって見えたんだよ!」彼の瞳は、純粋な好奇心で輝いていた。「だから僕、夜の卵焼きを食べる時、全力で皿を揺らして分子にエネルギー与えてるんですよ! 少しでも朝の味に近づけようと! あ、ツッコ、なんで見て見ぬ振りしたの?」
ツッコは信じられないといった顔で首を振った。「見たことねーよ! 皿揺らして食うやついねーだろ! 大体、全部こぼれたろ!」
「いやいや、例えばさ、ツッコとラーメン屋行った時、僕まだ麺が全然減ってないのに、ツッコもうスープ飲み干してたりするだろ?」ボッケはさらに続けた。「あれもさ、相対的にツッコの方が超高速でラーメン食ってるから、僕の時間がゆっくり進んでるだけなんだよ! 僕から見たら、ツッコがラーメン食ってる間、ずっと残像しか見えないんだよ。だから僕のラーメンだけ毎回伸びてんだよなー…」その時表情に、かすかに疑問の色が浮かんだ。あれ?なんか照明が暗いな。
「お前が遅いだけだ! あと途中で寝るな!!」ツッコの声が、ほんの少し遠くに聞こえたような気がした。「こいつ、いつもそうなんです! 絶対に時間通りに食い終わらないんです!」
ボッケは真顔に戻り、ツッコを見つめた。「なあ、ツッコ。僕たち今、漫才してるだろ? でもさ、この漫才が『面白い』って感じるのも、きっとお客さん一人ひとりの相対的な感覚なんだよな」あれ?ツッコの声が遠いような…彼の視界が、僅かに揺れているような錯覚に陥る。
「そりゃそうだ! 人によって笑いのツボは違うんだから! 当たり前のだろ!お前以外!」ツッコの声が、いよいよ遠のいていく。
「ってことはさ、僕たちがここでオチだと思って締めたとしても、お客さんの中にはあれがオチ?って思う人もいるかもしれないし、もしかしたら今のが最高のボケで、これから来るのがオチだって思ってる人もいるかもしれないんだよな」ボッケの言葉は、まるで夢の中にいるかのように、ぼんやりとした輪郭を帯びていた。
「は? 何言ってんだ、オチは今から出すんだよ!!」ツッコの焦りが、空間の歪みのように感じられた。
「だからさ、僕たちがどんなに頑張って最高のオチだ!って決めたとしても、それは僕たちにとっての絶対的なオチに過ぎなくて、お客さんにとっては相対的なオチなんだよ。ひょっとしたら、今頃家で晩飯食ってるお客さんもいるかもしれないし、もしかしたら、まだこの会場にも来てないお客さんもいるかもしれない。その人にとっては、この漫才自体がまだ始まってもいないんだよなぁ……」ボッケの言葉は、深い瞑想のようで、同時に虚空に消えていくようだった。
「もういい! 俺の血管がブチ切れるか、お前の頭のネジが外れ続けるか、どっちかが絶対的に終わるまで終わんねーのかよ! いい加減にしろ! どうもありがとうございましたーっ!!」
ツッコは、よろめくボッケの肩を掴んで舞台袖に引きずり込もうとした。ボッケは、まだ何か言いかけたそうに口を開閉している。観客が立ち上がりスタンディングオベーションの中舞台は暗転した。
数秒後、鼓膜を突き破るような車の急ブレーキ音が響き渡った。「ギィィィィィィッ!!!」
「はっ!」
ボッケは勢いよくガバッと目を開けた。荒い息が喉に張り付き、体中から冷たい汗が噴き出す。視界に入ったのは、先ほどまで立っていた舞台ではなく、夜の街を流れるタクシーの窓だった。隣には、疲れた顔でシートにもたれかかるツッコが座っている。
「おい! ツッコ! さっきの漫才…!」ボッケは興奮気味に声を上げた。「お客さん、爆笑してたんだ! 拍手鳴りやまなくて…スタンディングオベーションだったな…!」
ツッコは目を閉じたまま、諦めたように呟いた。「…ああ、そうかよ。よかったな。…って?全然ウケてなかったぞ」
ボッケは愕然とした。「な、なんだって!? あんなに拍手喝采だったのに!?? さっきって…じゃあ、今の漫才、もしかして…」彼の頭の中で、舞台での出来事が急速に色褪せていく。
「拍手なんかほとんどなかったし、みんなポカンとしてたぞ」ツッコは淡々と続けた。「特に『卵焼きの分子の運動エネルギーが〜』とかからお客さんの時間が止まってるように見えたわ」
「…まさか…」ボッケの顔から血の気が引いた。あの鮮明な記憶は、一体何だったのか。「全部僕の頭の中の、相対的な妄想だったのか!?」
ツッコはゆっくりと目を開け、疲労困憊の眼差しをボッケに向けた。「あのな、ボッケ。結局のところ俺たちの漫才は、お前のいう相対的な自己満足だったってことだよ。俺たちではウケると思ったんだが、現実では全然届かなかったってことさ。しかしお前のそのボケはいつも絶対的だな」
ツッコはそのまま座席にもたれかかり、再び眠りについた。ボッケは、最後のツッコミの言葉に深い衝撃を受け、茫然自失といった表情で夜景を眺めた。タクシーは静かに、そして容赦なく、夜の街を走り続ける。彼の脳裏には、舞台で感じたあの歓声が、遠い幻のようにこだましていた。
ボッケは小さく呟いた。
「まー、また寝れば、それが現実さ」




