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流血注意です。
小動物が死ぬシーンがあります。
翌日、いつものようにりんがやってきた。窓枠の外からこちらを見つめるりんのつぶらな瞳に心が揺れるが、私はひたすら口を噤んでいる。内心では小首を傾げるその愛らしい姿に謝罪を繰り返す。しかしそれは決して気取られてはいけない。この、格子越しにこちらを監視する暁には。彼の全てを見通すような澄んだ瞳が放つ睨みの前には少しの反応が命取りだ。
私は溜息をついた。りんにも悪いし、そもそもこうも張り付かれていては窮屈だ。ただでさえこんな狭いところに閉じ込められているというのに。
――昔だったらもっと、青空の下を駆け回っていたはずなのに。
ふと、目の前の景色が変わった。知らないはずなのに懐かしい。そしてどこか弾む気分が身体を駆け抜けていく。
目の前の、鬱蒼と繁った木々の間を足早に駆け抜ければ丘が見えた。そこを目掛けて弾む足は軽やかで、緑の匂いを肺いっぱいに吸いこむと胸が上下する。首筋を伝う汗は後で拭うことにすれば、あとは頬を撫でる風の心地良さだけが通り抜けていった。
私は後ろを振り向いた。私より五歳下の少年が追いかけてくる。彼は息を切らしながらも私の名前を呼んでいた。
――その名前に、心当たりはない。
強烈な違和感に、私は慌てて顔を上げた。目の前に広がるのはいつもの狭い部屋の中。解放感すら感じた景色とは似ても似つかない。あんな景色は見たことがない。丘とはなんだ。あんな光景など知らないというのに。
だが、なぜか心が揺れる。同時に、こめかみも痛んだ。
格子の向こうには変わらず暁がいる。その表情はこちらをどこか心配するかのようだった。
どこかで見たような気がする。
しかしすぐにその答えは判明した。あの奇妙な想像の中での少年に重なっていく。
髪色も目の色も肌も、年齢ですら一致しないというのに。どうしてか重なる気配の違和感の理由は、わからないままだった。
「りん」
目覚めてすぐに窓の下の小鳥に声を掛けるのは日課になっていた。
声を掛けるとりんと名付けた小鳥が疑う事も無く近づいてくる。その愛らしさに目尻を下げながら、普段は窓の下に落とす林檎を窓枠に置いた。りんが林檎に向かって飛びあがり、窓枠に小さな足を引っ掛ける。目の前にやって来たりんの愛らしさの前に身を切るかのような寒さすら溶かしていくかのようだった。
そんなことをしていたせいか、背後に気付くのが遅れてしまった。
「――その鳥はなんだ」
低い声だった。慌てて背後を振り向くと、そこには暁が立っていた。見下ろす彼の瞳の色は凍えるように冷たかった。
「あ、暁。これは、違うの……」
狼狽えながら誤魔化そうとした私を、暁は押しのけた。彼の行動の意味が分からず、私はなされるが儘だった。
訳が分からず見守っていると、暁の手がりんに伸びた。迷いなく掴もうとするその行動に、私はぎょっと目を丸めてりんと暁の手の間に割って入ろうとする。
「……りん! 逃げて!」
しかし暁はそんな私を軽々と払いのけると、りんを掴んだ。りんは首を左右に動かしながら、暁の手の中から逃げ出そうと羽をバタつかせていた。
「暁! なにをしようとしているの?! やめて!!」
異様な雰囲気に、私は慌てて彼の腕に縋った。ぴいぴいと、りんの悲鳴が鼓膜を劈く。
暁はそんな私にもりんにも構うことなく、拳を握りしめた。
小さな骨や肉が潰れた音以外、何も聞こえなかった。
暁の拳から伝った血が、畳の上に一滴落ちて染みを作る。痛いほどの静寂に包まれた部屋の中で、暁の視線がそれをゆっくりと追いかけていた。
「……掃除はあとでしておく」
暁の口から発せられた声は、静かなものだった。自分の手のひらの中にりんの潰れた身体がある事など知らぬかのよう。感情の温度が一切感じられないその声に、ぞくりと背筋に冷たいものが走る。
「外は危ないんだ」
私の心を解そうとするように、優しげな声が降り注いだ。
「決して興味を持つな。ここに居ればお前は安全なんだ」
りんを殺した手とは反対方向の腕が伸ばされた。その手から逃げるように、私は身じろぐ。拒否を感じ取った暁は、伸ばした腕をそのまま下ろし、背を向けた。
部屋から出て行く暁を、私は固まったまま見送った。彼の姿が見えなくなった頃、漸く息をつく。
私はその場にへたり込んだ。畳の上に垂れた血の雫を指先で辿る。暁の手の中から垂れた、りんの血だ。
あの小鳥が生きて、林檎を啄んでいたのはほんの少し前のことだ。りんが小首を傾げる動作や、小鳥らしい甲高い鳴き声は、記憶の中に鮮明に残っていた。
繰り返し脳裏に浮かぶ思い出が責め立てる。無意識のうちに荒くなっていた息を押し殺す。震える身体は何かに縋ろうとしてもそんなことは許されるはずもない。出来ることは、ただ涙を溢す事だけだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
あの小鳥が何をしたというのか。林檎をただ食べていただけではないか。だというのに、暁はあっさりと小鳥を潰した。
まるでそうすることが当然だとでも言いたげに。
――暁が恐ろしくて、堪らなかった。




