わたくしの悪評は、王太子殿下の無能を隠すための鎧でした。婚約破棄を賜り、喜んで公務から引退いたします
「アルティシア・グレンヴィル公爵令嬢!貴様との婚約を、今この場で破棄する!」
王立学園の卒業パーティー会場。煌びやかなシャンデリアの下、壇上のルシアン王太子殿下は、まるで舞台役者のように芝居がかった声で私を指弾した。会場に集まった貴族たちの視線が一斉に、中央に立つ私に集まる。
私はため息を呑み込む代わりに、完璧に鍛え上げたポーカーフェイスを張り付けた。
「……仰せのままに」
端的に、感情を込めず、一言。それが私の返答だった。
殿下の隣には、平民出身の聖女見習い、リリアン嬢が、震える小鳥のように寄り添っている。彼女の透き通るような瞳には涙が溜まり、その姿は周囲の貴族たちの「悪役令嬢アルティシアは聖女様をいじめた」という悪評を裏付けているようだった。
「貴様がリリアンにした非道は数知れない!陰湿な嫌がらせ、公務の妨害、そしてついには毒を盛ろうとしたという噂まで!これ以上、心が清らかな彼女を苦しめることは許されない!」
(毒?ああ、あれはリリアン嬢が、私が徹夜で作成した予算案の書類に間違って、彼女の薬草茶のカップを倒した話ね。毒物混入の噂にすり替わるなんて、噂話は本当に面白くできていますわ)
しかし、私の頭の中を占めていたのは、そんな些末なことではない。目の前で繰り広げられる茶番ではない。
(ああ、ようやく、ようやくこの悪夢のような公務から解放される……!)
ここ数年、私はルシアン王太子の優秀な婚約者として、その公務を支えてきた。いいえ、支えるなどという生易しいものではない。実際は、全ての公務を私が代行していた。
ルシアン殿下は人柄は良い。しかし、その知性と勤勉さは致命的に王太子の座にそぐわなかった。書類を読みたがらず、会議では居眠り。難題は全て私に丸投げ。「アルティシアに任せれば大丈夫」と、ただ笑っているだけだった。
私が感情を見せず、ひたすら膨大な政務と貴族の調整に没頭する様は、周囲には「冷酷」「鉄仮面」「殿下を操る悪女」と映ったのだろう。私の悪評は、実質的に殿下の無能を隠す「完璧な鎧」として機能していた。
「この断罪は正当なものだ!貴様には公爵令嬢の地位を剥奪し、辺境の修道院で謹慎を命じる!」
王太子の言葉は厳しかったが、私は胸の奥から湧き上がる歓喜を抑えきれなかった。
「……辺境の修道院、でございますか」
私は一度、優雅に深呼吸した。そして、この数年間、一度も見せなかった心からの笑みを浮かべた。その笑みはあまりに美しく、あまりに邪悪に見えたらしい。周囲の貴族たちが息を呑む音が聞こえた。
「王太子殿下」
私は一歩、前に踏み出した。
「婚約破棄、心より感謝申し上げます」
「なっ……感謝、だと?」殿下が怯んだ。
「はい。私は、この公務という名の苦行から解放されることに、これ以上の喜びはございません」
私は視線を壇上から、会場全体に移した。
「皆様は、私が殿下の愛を求め、王妃の座に固執しているとお考えでしたでしょう。残念ながら、わたくしの目的は常に、この国の財政と秩序を守ることでした。不出来な殿下のために」
私は初めて、殿下に向かって核心を突きつけた。
「殿下は、私が徹夜で調整した予算案を、たった三時間で猫の絵にすり替えたお茶目な方。私が貴族間の紛争を鎮めた書類を『難しくて頭が痛くなる』と庭に捨てた、愛らしい方。その全てを、この冷酷な悪女が引き受けていました」
その言葉に、財務大臣が顔面蒼白になる。公爵家同士の揉め事を抱えていた侯爵夫人が目を見開く。
「わたくしはもう、殿下の無能を隠すための鎧ではありません。リリアン嬢が殿下を心から愛しているというのなら、これからは彼女が殿下を支え、この国を支えるのでしょう」
私は恭しくお辞儀をした。これ以上、この茶番に付き合う気はない。
「ルシアン殿下、そして皆様方。わたくしがいた頃の安寧と、これから訪れる混乱を、存分に味わってくださいまし。悪評を賜ったこの公爵令嬢は、喜んで公務から引退いたします。ごきげんよう」
私は踵を返し、迷いのない足取りで会場を後にした。背後でルシアン殿下が「ま、待て!アルティシア!」と叫ぶ声が聞こえたが、もう私には関係ない。
一週間後。
アルティシアは辺境の父の別邸にいた。謹慎という名の、豪華な独身生活である。公爵家は彼女の尽力により莫大な財産を維持しており、父も彼女の苦労を理解していたため、地位剥奪の代わりに財産の全てを彼女に譲渡してくれたのだ。
新聞には連日、「王都の公務が突如停滞」「予算案の処理遅延で政情不安」といった文字が踊っていたが、彼女は紅茶を啜りながら無視した。
(お気の毒に。でも、私の知ったことではありませんわ)
修道院行きは撤回され、代わりに与えられた別邸の広大な敷地。その一角には、彼女が幼い頃から憧れていた温室があった。彼女が公務に追われていたせいで、手入れがされていなかった場所だ。
「さあ、始めましょう」
アルティシアは黒いドレスを脱ぎ捨て、動きやすいシンプルな服に着替えた。手には軍手と移植ごて。冷酷な悪女と呼ばれた令嬢が、今、温室で土にまみれている。
彼女が最初に取り組んだのは、鮮やかな赤と純白の薔薇を組み合わせた、「真実」という名の新しい品種の交配だった。
「誰かを支えるためではなく、自分の喜びのための仕事はこんなにも楽しいものですね」
彼女の頬には、政務に追われていた頃には決して見せなかった、心からの、そして誰にも媚びない、穏やかな笑みが浮かんでいた。この辺境で、誰に悪役と罵倒されることもなく、彼女は初めて、自分自身の人生という名の美しい花を咲かせようとしていた。