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心に効くイヤホン

世界のどこかで、ふと出会うことがある。

その名はノア。人にも、妖精にも見える存在。

ノアはただ、あなたにひとつの道具を差し出すだけ。

それをどう使うかは、あなた次第。

行き着く先を、ノアは静かに見届けている。



***


佐伯麻衣、28歳。

仕事は事務職だが、会社では「無難な人」としか見られていなかった。


何を言っても響かず、褒められることもない。

同僚の笑顔の裏に本音が隠れているのではないか、と気になって仕方がなかった。


「自分のことを、みんな本当はどう思っているのだろう」——その疑念は日ごとに膨らんでいた。


ある夜、満員電車で疲れ切って座っていると、隣に黒いマスクの青年が腰かけた。


白い肌、淡い金髪のような髪色、どこか中性的な美しさ。

不思議と存在感が浮いている。


「知りたいんだろう? 他人の心を」


彼はポケットから黒いワイヤレスイヤホンを取り出し、麻衣の掌に置いた。


小さな赤い光が瞬き、鼓動のように点滅している。


「これをつければ、心の声が聞こえる。ただし……、知ったことが、君の世界を変えるかもしれない」


麻衣は迷いながらも、それを耳に差し込んだ。

鼓膜を撫でるように、空気が震えた。




翌朝の会議。

上司が資料を眺めながら眉を寄せる。


その瞬間、イヤホンから声が流れ込んできた。


(この企画……安全性の部分が弱いな。そこが突っ込まれると痛い)


麻衣は息を呑む。

隣に座る先輩社員が口を開きかけていた。

だが、麻衣の口が先に動いた。


「この点は、安全性の強化を重点にすべきだと思います」


会議室に一瞬の沈黙。


上司の顔に驚きが走り、次いで大きく頷いた。


「いいな、それだ。佐伯、よく気づいた」


拍手の音が広がる。

隣の先輩は、口を閉じたまま視線を落とした。


その日の午後、麻衣は昇進候補リストに名前が載った。

(これが……本音を知る力の効果……!)


だが数日後。

ロッカールームで同僚たちが囁いていた。


「○○先輩、急に退職したんだって」

「え? プロジェクトから外されたんじゃなかった?」

「そんな人いたっけ?」


麻衣の背筋に冷たいものが走る。


先輩の机はすでに片付けられ、誰も彼女の名前を思い出せなくなっていた。


(え……? そんなはずない。だって、昨日まで……)


イヤホンが微かに赤く点滅した。



休日。

恋人の翔太とカフェにいるとき、イヤホンから声が流れる。


(次の誕生日、指輪を渡したい。驚くかな、喜んでくれるかな)


麻衣の心臓が跳ねた。


(指輪……? そんなの重すぎる。結婚? 婚約? まだそこまで望んでない……!)


焦りが喉をつきあげ、とっさに口を開く。


「ねえ、誕生日には……ネックレスが欲しいな」


翔太は一瞬きょとんとしたが、すぐに微笑んだ。


「……そうか、分かったよ」


誕生日。翔太は丁寧に包まれた箱を差し出し、中には輝くネックレスが入っていた。


「君が望んだ通りにしたんだ」と笑顔で。

麻衣は抱きしめながら涙を浮かべた。


けれど数日後、翔太は急に距離を置き始める。


「なんか……麻衣って、俺のことわかってない気がする」


彼の目は冷たくなっていた。



さらに翔太の実家に挨拶に行ったとき、麻衣は絶句する。


前に会ったときには「兄」がいたはずなのに、今回は「姉」がいる。

写真にも、翔太の兄は存在しない。


「……あれ?義兄さんいたよね? 去年会ったよね?」

「兄? 何言ってるの、最初から姉しかいないよ」


翔太も、彼の家族も、不思議そうに笑った。

麻衣の喉がひりつく。

(私が……変えた? この家族まで……?)


イヤホンの赤い点滅は、鼓動のように速くなっていた。




海外クライアントとの商談の日。

流暢な英語で質問が飛んできた。

(サステナビリティ……持続可能性だ。そこを答えればいい)


イヤホンが囁く。

麻衣はスマホをこっそり開き、単語を検索し、答えを口にした。


「This project focuses on sustainability…」


クライアントの目が見開き、笑顔で「Excellent!」と拍手する。

商談は大成功。

上司も誇らしげに麻衣を讃えた。


その夜。久々に実家に帰る。

だが、そこにあったのは古びた木造アパート。

玄関のドアは錆びていて、家の中は散らかったままだ。


「お母さん……? なんで、こんな……」


母は疲れた顔で振り返り、笑った。


「あんたが2年前に“どうしてもアメリカに留学したい”って言ったからじゃない。学費も渡航費も工面して、家を売って引っ越したでしょ? 忘れたの?」


「……え?」


母の目は真剣そのもの。

写真立ての中の家族写真には、アメリカに旅立つ麻衣を見送る家族が写っていた。


自分にはまったく覚えのない過去が、確かに存在していた。


麻衣の視界がぐらりと歪む。

イヤホンから、ざわめくような声が流れた。


(知りたいんだろう? 他人の心を。なら、世界の形も変えなくちゃね)




職場に戻ると、会議室がざわめきに満ちていた。


上司も同僚も、恋人も、母も……


すべての声がイヤホンを通して重なり合う。


「お前はここにいなかった」

「本当は存在していない」

「この世界に必要なかった」


顔がぼやけ、声だけが響く。

麻衣は頭を抱え、叫んだ。


「やめて! 私はここにいる! 消えない……!」


鏡に映る自分の顔は、輪郭が溶けて消えかけていた。

耳の奥で、イヤホンが脳に食い込むように光り、赤が点滅する。



翌朝。

オフィスの自席は空いていた。

社員名簿から「佐伯麻衣」の名前は消えていた。

同僚に尋ねても、「そんな人いた?」と首を傾げる。


会議室の窓際にノアが立ち、静かに囁いた。


「心を覗くことは、未来を奪うこと。

欲望が望んだのは“知ること”じゃない。存在そのものを、変えることだったんだ」



机の上には、黒いイヤホンがひとつ。

赤い光が最後に瞬き、すっと消えた。


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