恋愛フィルム
世界のどこかで、ふと出会うことがある。
その名はノア。人にも、妖精にも見える存在。
ノアはただ、あなたにひとつの道具を渡すだけ。
それをどう使うかは、あなた次第。
行き着く先を、ノアは静かに見届けている。
***
雨上がりの夜。
会社帰りの 佐藤真美 は、古びた写真館の前で足を止めた。
ガラス戸の影に、黒いマスクをつけた青年が立っていた。
K-POPアイドルのように整った中性的な顔立ち。
街灯に濡れた髪が光り、その存在は現実離れして見えた。
「恋人が欲しいんでしょ?」
青年……ノアは、包み紙にくるまれた古びたフィルムの束を差し出した。
「これで撮った人は、君にとって“理想の恋人”になる。
でも……理想は理想にすぎない。忘れないでね」
真美はその言葉を深く考えず、束を受け取った。
真美には、密かに想いを寄せる人がいた。
職場の同僚、村瀬優斗。
誰にでも気さくで、爽やかな笑顔を向ける人気者。
真美は遠巻きに見つめるだけで、声をかける勇気すら持てなかった。
(彼に振り向いてもらえるわけない……
でも、もし“理想の恋人”にできるなら……)
切実な願いが、フィルムを受け取った彼女の背を押した。
翌日。
コピー機の前で優斗が書類を整理している時、真美は震える手でカメラを構えた。
シャッターを切ると光が弾け、そこに完璧な優斗が現れた。
「ずっと一緒にいたかったんだ」
柔らかな声。
曇りのない瞳。
温もりを帯びた笑顔。
真美は歓喜で震え、涙がこぼれた。
最初は幸福だった。
「おはよう」と囁かれて目覚め、
「おかえり」と抱きしめられる。
どんな話も楽しそうに聞き、どんな料理も「最高だ」と褒めてくれる。
孤独も不安も消え、人生が報われたように思えた。
だが次第に、物足りなさが募った。
(もっと……理想通りに)
彼は怒らず、泣かず、弱さも見せない。
その完璧さが次第に仮面のように冷たく感じられた。
真美はふと、残りのフィルムの束に気づいた。
(次は……もっと完璧になるかもしれない)
そして、彼女は撮影を繰り返した。
別の同僚を。
道ですれ違った青年を。
カフェの店員を。
——やがて、部屋の中は“理想の恋人たち”で埋まっていった。
数週間後。
木造アパートの二階。
夜遅くまで、真美の部屋からは低いざわめきが漏れていた。
声。足音。笑い声。
「……最近、上の部屋がうるさいんだけど」
隣人の苦情が大家に届く。
大家は不審に思い、階段をのぼる。
古い木の床はきしみ、今にも沈みそうだった。
(たった一人で住んでいるはずなのに……なぜこんなに……?)
戸口に立ち、ノックする。
「佐藤さん? ちょっと開けてくれる?」
返事はない。
しかし、部屋の中からはざわざわとした人の気配が絶えず伝わってきた。
意を決して、大家は扉を開けた。
ぎゅうぎゅうに詰め込まれた無数の男たちが、部屋いっぱいにひしめいていた。
同じような笑顔で、同じ言葉を繰り返す。
「君が一番だよ」
「君を愛してる」
「君が望むなら、僕はなんでもする」
真美はその中央に座り込み、虚ろな瞳で微笑んでいた。
誰に抱きしめられても、誰に囁かれても、ただ「もっと……もっと……」と繰り返す。
目を凝らすと、六畳間の隅々にまで恋人たちが折り重なっていた。
人の上に人が積み重なり、天井に手が届きそうなほど。
お風呂場にも、トイレの通路にも、顔のない笑顔がぎっしりと詰まっていた。
ぎしぎしと床板が悲鳴をあげ、狭い空間はむせ返るほどの熱気で満ちていた。
大家の視界がぐらりと揺れた。
常軌を逸した愛の合唱に喉が裂けるような悲鳴を上げた。
窓辺にノアが立っていた。
夜風に黒髪をなびかせ、低く呟く。
「最初の一枚で、幸せは手に入っていたはずだった。
でも欲を出して、束を使い切るまで止まらなかった。
理想を増やしすぎたら、人間は現実を生きられなくなる」
その声は、熱に酔った部屋には届かない。
翌日。
部屋の中はもぬけの殻になっていた。
残っていたのは、黒く焼け焦げたフィルムの灰だけだった。