瑠璃の明細
世界のどこかで、ふと出会うことがある。
その名はノア。
人にも、妖精にも見える存在。
ノアはときに贈り物を、またときに沈黙を差し出す。
あなたが選ぶ言葉や行動こそが、運命を形づくる。
ノアはその結末を、ただ静かに見届けている。
***
湊区瑠璃ヶ丘 (みなと くるりがおか)。
その地名は、ある種の人間にとっては「憧れ」と同義語だ。
高い空、手入れされた街路樹、選ばれた人間だけが呼吸を許される聖域。
明日香にとって、そこはずっと、夢の場所だった。
もちろん、一般のサラリーマン家庭には高嶺の花だとわかっている。けれど、夫の浩平が係長に昇進した春、その「ほんの少しのきっかけ」が背中を押した。
「一生に一度くらい、思いっきり背伸びしてみるのも悪くないか」
引っ越し初日、浩平は段ボールの山を見上げながら、自分に言い聞かせるように笑った。
「俺も頑張るし。明日香の夢だったもんな、ここ」
「うん。ありがとう、浩平」
それは、家族みんなで決めたことだった。
子どもには、小さなランドセルが似合う最高の未来を用意してあげたい。
そのためなら、多少の無理も「希望への投資」になる。私たちはこの街で、一世一代の背伸びをして生きていく。
そう誓ったのだ。
けれど――実際は、綺麗な空気より先に、現実は重かった。
駅前の坂を上るたび、胸の奥で「今月の引き落とし」が一段階ずつ増えていく感覚がある。
最初は「ポジティブな挑戦」だったはずの背伸び。
しかし、問題は――背伸びというのは、一度始めると爪先立ちのまま降りられなくなることだ。
翌週、明日香は近所のカフェで「初・瑠璃ヶ丘ママ会」に遭遇した。
店内は白と木目と、やたらゆっくり流れるジャズ。
注文カウンターの前で、ママたちは自然に輪を作っていた。
「はじめまして? 新しく越してきたの?」
声をかけてきたのは、頬の骨が高く、まつ毛が長い女――ボスママ格の、山上 玲奈だった。指輪が、生活の余裕みたいに光っていた。
「うち、○○小なの。明日香さんは?」
明日香は一瞬で脳内がフリーズした。
○○小――それは、噂の私立だ。学費を聞いた瞬間、人は笑顔のまま固まる。
「……まだ、これからで」 曖昧に笑って逃げると、輪の奥で取り巻きのママ友が小さく笑った。
「ふふ、いいなぁ。何もまだ考えてないなんて、一番幸せな時よねぇ」
――言い方が、もう敵だった。
そのとき、カウンターの向こうから、店員がすっとカップを差し出した。
黒いエプロン、薄い笑み、やたら整った顔。 名札には小さく「ノア」とある。
「新しいお客様、ですよね」
ノアは明日香にだけ聞こえる声で言った。
「この街、疲れません?」
明日香は「疲れる」と言いかけて飲み込んだ。
ここで疲れると言ったら、負ける気がしたからだ。
ノアは、レジ横の小さな箱を指で弾いた。 カラン、と軽い音。
「よかったら、これ。引っ越し祝いです」
差し出されたのは――カードケース。 透明で、薄く、角度によって虹色に光る。
その中に、白いカードが一枚だけ入っている。
「なんですか、これ。何かの・・・パスカード・・・?」
「“ルリパス”って呼んでください。持ってるだけで、必要なものが見えるようになります」
「……必要なもの?」
「ええ、この街で生きるために、ね」
冗談みたいな顔で、ノアは笑った。
笑い方が軽すぎて、逆に怖かった。
明日香は、カードケースをバッグに入れた。
その瞬間、なぜか肩の力が少し抜けた。
“見えるようになる”。 それは、ずるいほど甘い響きだった。
***
翌日から、ルリパスは本当に役に立った。
まず、クローゼットの前で、明日香はカードケースを開いた。
服にかざすと――値札でもない文字が、視界に浮かんだ。
『上品度:72 安全:高 嫉妬誘発:低』
『清潔感:80 話題性:弱 “わかってる感”:中』
「……なにこれ……」
恐る恐る別の服にかざす。
『上品度:61 見栄:強 “背伸び臭”:やや有』
明日香は、笑ってしまった。 だって当たっている。
自分でも「これ着ると頑張ってる感じ出るな」と思っていた服に、“背伸び臭”と書かれている。
ルリパスは、嘘をつかなかった。
ママ会での会話も同じだった。
相手の言葉の端を、明日香が拾い損ねそうになると、パスが薄く震え、文字が浮かぶ。
『今は“共感 → 控えめ自慢”が正解』
『ブランド名は言わない。“たまたま”を装う』
明日香は言われるままに、笑った。
「わかるー、うちも最近バタバタで。あ、でも…たまたま、夫が出張のお土産でくれて」
そしてバッグを“ほんの一瞬”だけ見せる。 見せびらかさない。けど、見える。
「え、かわいい。どこの?」
「えー、どこだっけ。私も詳しくなくて」
嘘だ。詳しい。めちゃくちゃ調べまくって買った。でも、詳しくないフリが正解だと、パスが言っている。
明日香は少しずつ、輪の中心に近づいていった。
最初は「新参者」だったのに、次第に「感じのいい人」になり、いつの間にか「センスがある人」になった。
それは気持ちよかった。
健康になるより、痩せるより、 “人に認められる”って、こんなに即効性がある。
夫の浩平も喜んだ。
「すごいじゃん。友達できたんだ」
子どもも、幼稚園で「ママのお洋服かわいい」と言われたらしい。
明日香はその報告だけで、ご飯がちょっと美味しかった。
しかし、ルリパスは、ある日から“余計なもの”まで見せ始めた。
最初の違和感は、ランチのときだった。
「ここのランチ、季節の食材を使ってて素敵なのよ」
玲奈がメニューを広げる。その指先を見た瞬間、メニューの上に奇妙な注釈がポップアップした。
『本日のランチ:2,980円(支払い設定:分割)』
明日香の箸が止まった。 分割? 安いとは言えないが、でも三千円のランチで?
まさか、と思いながら、周囲で愛想笑いを浮かべる取り巻きたち――由美、愛莉、真理子へと視線を滑らせる。
すると、彼女たちの頭上にも、次々と“明細”が表示された。
『由美:今月、家賃遅延1回』
『愛莉:夜、在宅で別口収入』
『真理子:転売アカウント稼働中』
背筋が寒くなった。
みんな、無理をしている。私と同じだ。慌てて視線を戻し、正面の玲奈を見る。
ネイルは完璧。
笑顔も完璧。
でも、その優雅な笑顔の上に、残酷な文字が点滅していた。
『笑顔:演出(残高不足)』
明日香は、喉の奥が冷えた。
玲奈が、何か冗談を言って笑った。明日香も笑った。笑い声が、少し遅れて出た。
“遅れて出る笑い”は、自分でも気持ち悪い。
帰宅後、明日香はカードケースを机に置いた。
見なければいい。 見なければ――普通に戻れる。
そう思ったのに、翌朝、鏡の前で髪を整えた瞬間、視界の端に文字が滲んだ。
『わたし:今月の不安 14件』
『わたし:見栄維持に必要な支出 87,000円』
『わたし:家族の笑顔=担保(資産価値:低)』
担保、って。
家族の笑顔が、借金のカタ?
それとも、私の見栄を成立させるための「手持ち資産」だって言うの?
明日香は鏡を睨んだ。 睨んでも、文字は消えない。
まるで、目の裏側に直接貼りついているみたいだった。
***
ある日、ママ会に“本物”が来た。
遅れて入ってきたその女性――静は、驚くほど地味だった。
ベージュのコート、飾り気のない靴。 バッグも、ブランドの主張がない。
なのに、店内の空気が一瞬、整った。
「ごめんなさい、遅れちゃって」 声は柔らかいのに、言葉が“急いでない”。
急いでない人間は、強い。
玲奈たちが一斉に「まあ!」「お久しぶり!」と立ち上がる。
その光景が、宗教みたいに見えた。
明日香の視界に、ルリパスが勝手に文字を出した。
『対象:本物』
『争い:0』
『見栄:0』
『余裕:∞』
『人格:高』
『この人は、あなたの戦場にいない』
……戦場?
明日香は、自分の背中に汗が出るのを感じた。
そうか。 自分は戦っていた。 ママ会は、友達作りじゃなかった。
戦場だった。
そして、その“本物”である静は、最初からここにいて、 明日香たちの戦いを、戦いとも思っていなかった。
その夜、明日香は眠れなかった。ベッドの暗闇で目を閉じても、文字だけが光る。
『わたし:今月の引き落とし(不足リスク:中)』
『わたし:夫の残業(増加)』
『わたし:子どもの“気づき”(進行中)』
気づき? 何に?
隣で眠っている子どもの寝顔を見た瞬間、明日香の視界が揺れた。
『子ども:空気を読む(習得)』
『子ども:ママの笑顔=緊張を学習』
『子ども:安心の残高 低下』
明日香は息を止めた。
そんなの、やめて。
見たくない。 これだけは、見たくない。
ルリパスは、明日香の拒否を無視して、淡々と明細を増やしていった。
翌週、ママたちの“チャリティーバザー”があった。
上品な名目で、不要品を並べ、寄付をするイベント。 でも実際は、見せ合いの祭りだ。
「これ、限定だったのよ」
「うち、もうサイズアウトしちゃって」
「え、もったいない。買い取る!」
笑顔の裏側で、ルリパスが文字を吐き出す。
『限定:転売予定』
『もったいない:現金化したい』
『買い取る:優越感を購入』
『寄付:免罪符』
明日香は足がすくんだ。
周りを見渡すと、ママたちの頭上に“同じ種類の明細”が浮かんでいた。
『残高不足』
『焦り』
『承認欲求』
『疲労』
『夫婦不和(未処理)』
『夜の仕事(秘密)』
『副業(隠匿)』
『転売(常習)』
……みんな。 みんな、同じだった。
違うと思ってた。
自分は“背伸び”で、あの人たちは“本物”だと思ってた。 でも違う。
明日香が張り合っていたのは、“同じ背伸び組”だった。
同じ兵隊同士で、同じ銃を磨いて、同じ勲章を欲しがっていただけ。
その瞬間、明日香の胸の奥で、なにかが折れた。
折れたのに、音がしない。 だから余計に怖い。
「明日香さん? どうしたの、顔色悪い」 誰かが言った。
明日香は笑顔を作った。 作ろうとした。 でも、笑顔の形がわからない。
口が勝手に動いた。 「ごめん、子どもが……ちょっと」
――嘘だ。 子どもは元気だ。
でも、こういうとき“子ども”は最強の免罪符だと、ルリパスが教えてくれた。
明日香は会場を出た。
坂を下りる。 風が冷たい。
空気が、やっと普通の温度になっていく。
背後で、誰かの笑い声がした。
振り返ると、入口の影に、ノアが立っていた。
相変わらず、カフェ店員みたいな顔で。
「逃げるんだ」 ノアは、あっさり言った。
明日香は震える声で言った。
「……見えちゃったの。全部」
「うん。見えるって、便利でしょ」
「便利じゃない。あんなの呪いよ!」
ノアは肩をすくめた。
「真実って、だいたい呪いに近い」
明日香は泣きそうになった。
でも泣かなかった。 泣くと、明細が増えそうだったから。
ノアは、最後にこう言った。
「安心して。あの街で“本物”に会える人、ほとんどいないよ」
「……じゃあ、私は」
「君は君の戦場で、君と同じ兵隊と戦ってただけ。気づけたの、えらいと思う」
褒め言葉なのに、明日香の胃がきゅっと縮んだ。
えらい。
それもまた、評価だ。 評価の檻から、まだ出られていない。
***
明日香は引っ越した。
瑠璃ヶ丘から、少しだけ家賃が下がる街へ。 坂の少ない街へ。
戦場のない街へ――行ったつもりだった。
でも、ルリパスを捨てても、明日香の目はもう元には戻らなかった。
夕方のスーパー。レジの列。
明日香は無意識に、前の客の背中を目で追ってしまう。
すると、視界に文字が浮かび上がる。
『対象:主婦』
『笑顔:疲労で維持』
『今日のご褒美:特売のアイス』
『本当は:誰かに褒められたい(未達)』
それを見て、明日香の胸に、どろりとした暗い悦びが湧いた。
(ああ、よかった。この人も満たされていない)
(私だけが惨めなんじゃない)
他人の「足りない数字」を見ると、安心する。
自分より下が居ることを確認すると、安い優越感で呼吸が楽になる。
明日香は、その蜜のような安堵感を、ごくりと飲み込んだ。
だがその直後、ふと夜の窓ガラスに映った自分と目が合った瞬間、その優越感は泥のように崩れ落ちた。
ガラスの中の自分にも、文字が浮かんでいる。
『わたし:他人の不幸で栄養摂取』
『わたし:人間性(枯渇)』
『わたし:幸福度(比較でしか測定不能)』
「……っ」
明日香は息を呑んだ。
結局、場所を変えても、私は「見下せる相手」を探して生きているだけだ。
他人の明細(不幸)を覗き見て、安心し、そんな自分を「最低だ」と見下す。
その繰り返し。
それ以上でも、それ以下でもない。
家に帰り、買ってきたアイスを開ける。 スプーンを入れる。 口に運ぶ。
甘い。
……甘いはずなのに、舌の上で、さっき見た“他人の不幸”の味がした。
鉄の味がする。数字の味がする。
「……最低」
呟きながら、明日香はスプーンを止められない。
甘くて冷たい自己嫌悪を噛み締めながら、明日香は暗い部屋で、一人で嗤い続けた。




