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与えられない贈り物-逃げるという進化

世界のどこかで、ふと出会うことがある。

その名はノア。人にも、妖精にも見える存在。

ノアはときに贈り物を差し出し、またときに、何も与えない。


あなたが選ぶ言葉や行動こそが、運命を形づくるのだ。

ノアはその結末を、ただ静かに見届けている。


***


佐久間恒一は、三十五歳だった。

広告代理店で企画職をしている。いや、「在籍している」という方が正しいかもしれない。


企画は出す。資料も整える。締切も守る。

だが、通らない。


上司は言う。

「悪くない。でも、今じゃない」

「方向性がちょっと違うかな」

「もう少し“刺さる”ものを」


その“刺さる”が何なのか、誰も具体的には言わない。


恒一は毎晩、終電で帰り、コンビニの白い弁当を食べながら、自分が削れていく音を聞いていた。

努力が足りないのだろうか。才能がないのだろうか。

もう少し頑張れば、もう少し我慢すれば。


そう念じるうちに、気づけば十年が経っていた。


ある日、会社近くにある公園のベンチに、見慣れない老人が座っていた。

ひどく古風な服装で、白いひげを撫でながら鳩を眺めている。


なぜか恒一は、声をかけていた。

「……あの、ここ、よく人が座りますよね」


老人は、ゆっくり振り向いた。

「ええ。環境が良い」


それだけだった。妙に引っかかる言い方だ。

恒一は導かれるように、自分のことを話し始めていた。


仕事のこと。評価されないこと。頑張っているのに報われないこと。

老人は相槌も打たずに聞いていたが、恒一が口をつぐむと、静かに言った。


「あなたは、生き残ろうとしているのではない」


恒一は眉をひそめた。

「……え?」


「環境に勝とうとしている」


胸の奥が、ひくりと動いた。


「勝とうとする個体は、たいてい死ぬ」

その言い方は、脅しでも慰めでもなかった。ただ事実を読み上げる声だった。


「努力しているんです」

恒一は、少し語気を強めた。「逃げてるわけじゃない」


老人は首を振る。

「努力は否定しない。だが、あなたの努力は――今の環境にとって、邪魔だ」


言葉が突き刺さった。


「能力が足りないからではない。そこに置かれているからだ」


恒一は、何も言えなかった。

老人は立ち上がり、鳩が散っていくのを眺めながら続けた。


「環境を変えられないなら、個体が移動すればいい」


それだけ言って、老人は去った。

名前も、肩書きも、何も残さずに。


***


その夜、恒一は眠れなかった。

だが奇妙なことに、胸に重くのしかかっていた焦燥は、少しだけ軽くなっていた。


翌日、恒一は会社を辞めた。

引き止められもしなかったし、送別会もなかった。


その後、フリーで企画を請け始めた。

大きな案件は来ない。だが、小さな企業から、ぽつぽつと声がかかるようになった。


「ちょうど、こういう視点が欲しかった」

「これ、うちには合ってます」


初めて、自分の企画が“邪魔ではない”場所に置かれた感覚があった。


収入は派手じゃない。だが、夜は眠れる。

息ができる。


***


昼下がりのカフェは静かだった。

平日のこの時間帯は客も少ない。


カウンターの内側で、ノアは無言でコーヒーを淹れていた。エプロン姿は驚くほど板についている。


誰も彼を特別だとは思わない。それでいい。


窓際の席に、あの老人が座っていた。

新聞を広げているが、視線は文字ではなく、通りを歩く一人の男を追っている。


ノートパソコンを抱え、少し猫背で、けれど足取りは軽い。


佐久間恒一だった。


「……随分、穏やかな顔になった」

老人――ダーウィンが、ぽつりと言った。


ノアはカップを磨きながら答える。

「生き残った個体は、だいたいそうなる」


「勝った顔じゃないな」


「勝ってないからね」

ノアはカウンター越しに、砂糖の小袋を整えながら続ける。

「彼はただ、死なない場所に移動しただけだ」


ダーウィンは、かすかに笑った。

「それが一番難しい。多くは、勝てない環境に殉じることを、美徳だと勘違いする」


窓の外で、恒一が立ち止まり、スマートフォンを確認している。

小さく頷いて、歩き出した。どうやら、仕事の連絡が一つうまくいったらしい。


「成功、だな」

ダーウィンが言う。


ノアは首を振った。

「まだ観測中。大きな成果じゃないし、歴史に残る発見でもない。世界を変えたわけでもない」


「それでも?」


「それでも、彼は今日を越えた」

ノアはコーヒーを一杯、ダーウィンの前に置いた。

「砂糖は?」


「いらない。私は、苦い方が好きだ」


ノアは笑った。

「人間は、逆だ。苦味を消すために、甘さを足す。でも彼は、苦味のある場所から離れただけ」


ダーウィンは、カップの中を覗き込む。

「贈り物は、渡さなかったのか」


「うん」

ノアはあっさりと答えた。「今回は、何も与えない方がよかった」


「助言だけ?」


「いや。事実を一つ、置いただけ」


ダーウィンは静かに頷いた。

「適応だな。進化は、才能でも努力でもない」


「配置の問題だ」


カフェのドアが開き、別の客が入ってくる。ノアはいつもの店員の顔に戻る。

「いらっしゃいませ」


ダーウィンは最後にもう一度だけ、窓の外を見た。

恒一の姿は、人波に紛れてもう見えなかった。


「彼は、自分が成功したとは思わないだろうな」


「それでいい」

ノアはレジを打ちながら言った。

「成功したって思った瞬間から、人はまた、環境に縛られる」


ダーウィンは立ち上がった。

「面白い観測だった。君は、本当に贈り物が下手だな」


ノアは、少しだけ困ったように笑った。

「だから、人間は勝手に生き延びる」


ダーウィンが店を出る。ドアベルが、軽く鳴った。

ノアはカウンターの中で、次の客のために、またコーヒーを淹れる。


世界は今日も、静かに選別されていく。

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