人面犬の祝祭―ニスの可愛い悪意―
世界のどこかで、またひとつ奇跡が生まれた。
それが祝福か呪いかを決めるのは、いつも人間だ。
ノアはただ、観察する。
その結末を、まぶたの裏に記録するために。
***
「人面犬、現る。」
ニュースサイトの見出しは、最初こそ冗談のようだった。
だが、翌日には誰も笑っていなかった。
SNSでは、通学路で撮られた人の顔をした犬の映像が繰り返し拡散され、
「#フェイスドッグ」というタグが一晩でトレンドを独占した。
映像の中でそれは、コンビニ裏の駐車場をゆっくりと歩いていた。
毛並みは灰色がかり、目の奥には人間らしい黒の輪郭。
鼻梁はやや高く、唇が震えるたび、微かな笑みのような影ができる。
声は出さない。ただ、見ている。
まるで「お前も人間か?」と確かめているように。
ノアはその映像を、廃駅のホームで無音再生していた。
冷たい風がガラスを鳴らす。
そこには確かに、異形が映っていた。
だが――
「……魔力の反応が、ない?」
ノアの目には、いつも世界の裏側が見える。
願いの濃度、歪みの温度、
アイテムの魔力の影…。
だが今回は、
まるで空白のような存在だった。
超常の気配がないのに、現実がねじれている。
それが、ノアにはいちばん不気味だった。
数日後、現場へ向かうと、町は既に祭りのようだった。
フェイスドッグのイラストが印刷された横断幕。
「顔犬バーガー」
「人面犬せんべい」
──冗談のつもりが、冗談じゃない熱気。
人々は笑いながらスマホを構え、
その目は奇妙な一体感で濁っていた。
ノアは立ち止まり、群衆の中心にある檻を見つめた。
中には、噂の人面犬がいた。
群衆の歓声を受けながら、静かに尻尾を振っている。
表情は人間そのもの。
ときおり、観客を見上げては「微笑む」ように顔を動かす。
それだけで悲鳴と拍手が入り混じる。
ノアの眉がわずかに動いた。
「……やはり、魔力がない。なのに、存在が安定している。」
近くのテレビ局員がインタビューをしている。
飼い主だと名乗る男が言う。
「最初は普通の犬だったんですよ。
ある日突然、人の顔になって……でも、噛みついたりしないんです。
なんていうか、話しかけたくなるんですよね。」
ノアは男の声を聞き流しながら、空を見た。
曇天。
風の流れが、微妙に逆転していた。
「……誰か、いるな。」
群衆のざわめきの中、
ひとりの少女がノアの視界に入った。
ピンクと漆黒を基調にしたフリルの魔女服。
傘のように膨らんだスカートの裾からは、
光沢のある黒タイツが覗いている。
白い肌は昼光でも透けるほど淡く、
長い銀髪が波打つたび、甘い香水のような風が通った。
彼女は笑っていた。
満開の花のように無邪気な笑顔。
その手には、飴玉のように光る魔法石を載せた杖。
「あーあ、見つかっちゃった。
ほんと、ノア兄さまって勘がいいよね。」
ノアは静かに振り向く。
「……ニス。」
少女はにっこりと笑い、スカートを揺らした。
「クラウン様のご命令でね。
ちょーっと、面白い実験をしてたの。」
ノアは一歩近づく。
「この犬は、お前の仕業か?」
ニスは唇に指をあて、わざとらしく首を傾げた。
「んー? “仕業”なんて言い方、やだなぁ。
だって、この子、みんなが見たいって思ったから、見えるようにしただけだもん。」
「見えるように……?」
「うん。あたしが魔力遮断のベールを1枚かけておいたの。
魔力を感じないように、あなたが見ても現実にしか見えないようにね。
だから勘違いしたでしょ? 『魔力がない』って。」
ノアの目が細くなる。
「……高等魔術だな。クラウンの直伝か。」
「えへへ、でしょ? えらいでしょ?」
ニスはくるりと回って見せる。
スカートの裾が花弁のように舞い、
その中心で、彼女の瞳だけが闇色に光った。
「ねえノア、あなたは人間の『可愛い』を信じてる?
あたしはね、信じない。
『可愛い』は、どこまで行っても欲望の別名なんだよ。」
その夜、街の電波塔が一斉に乱れた。
SNSのフィードには、顔犬の新しい写真が洪水のように流れ込む。
どの写真も、少しずつ違う顔。
老いた男、泣く子供、笑う女性――
まるで見る者の記憶の中から顔を抜き取って再現しているようだった。
ノアは屋上に立ち、
空気中の波長の乱れを指先で感じ取る。
「……人間の認識が、混線している。
お前、何をした?」
ビルの陰から、ニスがひょこっと顔を出した。
「ちょっと、人間たちの『好き』をつなげてみただけ。
だってさ、みんなが“いいね”って言うものを、
形にしてあげるのが優しさでしょ?」
ノアは呟く。
「優しさと破壊は、紙一重だ。」
風が吹き、夜の街が歪んだ。
ビルの看板が波のように揺れ、
その間から、数百匹の“顔犬”が這い出してくる。
どれも現実の犬に見えるのに、
その瞳の奥は鏡のように黒く、人の影を映している。
夜明け前の郊外。
霧に包まれた物流センターのような建物。
看板には企業ロゴが輝いていた。
「フェイス バイオテック」
――人面犬の商標登録を行った、
世界初の“感情表現型ペット開発企業”だ。
中に入ると、低温の風が肌を撫でた。
通路の両脇には無数のガラスケージ。
ラボコートを着た技師たちが、
タブレットに映る「注文リスト」を見ながら指示を出している。
「注文番号187、若い女性の笑顔。感情反応は共感を強めに。」
「No.202、子どもの顔に変更。眉は下げ気味で。」
培養槽の中では、泡に包まれた顔犬の胎児が揺れている。
どの顔も、どこかで見覚えのあるような、
曖昧な「誰かの顔」だった。
奥の部屋には、失敗体が積まれている。
片目だけ笑ったままの個体、
顔の半分が沈んだまま固まった個体、
人間の唇で犬の鳴き声を出そうとする個体。
冷却庫に投げ込まれる音が、
金属の冷たさとともに響いていた。
ノアは、その光景をただ見ていた。
怒りでも悲しみでもない。
ただ、静かな理解の表情。
「……やはり、人間は神の模倣が好きだな。」
その声のすぐ後ろで、
鈴の音のような笑い声が響いた。
「ねえ、見てて面白いでしょ?」
振り向けば、ニスが立っていた。
ピンクと黒の魔女衣装。
その微笑みはどこか冷たく、瞳はまるで夜の湖面のように光る。
「あたしが作ったのは最初の一匹だけ。
あとは人間が勝手に繁殖させたの。
多様性っていう魔法の言葉を使ってね。
ほら、みんなが自分の理想を買ってる。
『可愛い』を口実にして、生命をカスタマイズする時代の誕生だよ。」
ノアは檻の中の犬たちを見た。
どの瞳も光っている。
恐怖ではなく、理解を求めるように。
「……理解されたい欲望が、理解されないまま増殖している。」
ニスは笑う。
「ほんとに笑えるよね。
多様性の名のもとに、
みんな同じ顔の夢を見てるんだもん。」
彼女は指を鳴らし、
工場の照明が一斉に瞬いた。
人面犬たちの影が壁にゆらぎ、
祭りの提灯のように笑顔を揺らした。
ノアは歩み寄る。
夜の光が彼の瞳を金に照らし、
冷たい声が空気を震わせる。
「ニス、この祝祭は、人間には早すぎる。」
「ふふ、だからこそ面白いのよ。」
ノアの指先が閃く。
一条の光が走り、犬たちを包み込む。
悲鳴はない。
ただ、沈黙。
風に舞う灰のように、犬たちは粒子となって消えていく。
ニスは唇を尖らせて言う。
「つまんなーい。やっぱノアって、優しすぎる。
あたしなら、もっと面白くできるのに。」
ノアは背を向けた。
「可愛い、という言葉ほど、残酷なものはない。
人はそれを言い訳にして、何でも壊せる。」
ニスはくすりと笑った。
「だから、世界は壊すに値するのよ。
クラウン様が見たら、きっと喜ぶわ。」
夜明け。
ノアは河川敷に立っていた。
陽が昇る。
地平線の向こうで、風に揺れる草が波打ち、
そこに一匹の犬が座っていた。
普通の犬。
けれどその目だけが、人のようにまっすぐノアを見ていた。
「……まだ、完全には消えていないか。」
ノアは懐から古びた時計を取り出す。
秒針が、ほんの一瞬だけ逆回転した。
そのとき、風の中で誰かの声が響いた。
「ねぇノア兄さま、また遊ぼうね。」
風が甘く香る。
桜のような、血のような、曖昧な匂い。
ノアは小さく微笑み、空を見上げた。
そこには、雲の形をした犬の顔が浮かび、
ほんの一瞬だけ、笑った。
「世界は、欲望で満ちている。
そのどれもが可愛い、と言われるのなら、
きっと、次の悲劇もすぐそこだ。」




