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半熟卵のルーローハン

世界のどこかで、ふと出会うことがある。

その名はノア。人にも、妖精にも見える存在。

ノアはときに贈り物を、またときに沈黙を差し出す。

あなたが選ぶ言葉や行動こそが、運命を形づくるのだ。

ノアはその結末を、ただ静かに見届けている。


***


森田和夫、四十五歳。

昼休み、会社近くの台湾料理チェーンにふらりと入った。


店の壁に掲げられた大きな写真。

艶やかな肉と白米の上に、半熟卵がとろりとのったルーローハン。


その黄金色の黄身を目にした瞬間、森田の食欲は決まった。


「ルーローハンひとつお願いします」


注文を受けたのは、黒いマスクをつけた若い店員。

どこかアイドルのような中性的な顔立ちをしていた。

胸の名札には「NOAH」と書かれている。



料理はすぐに運ばれてきた。

森田は夢中で箸を進める。

肉の甘辛さもご飯の香りも申し分ない。


だが、八分目ほど食べたところでふと気づいた。

……卵が、ない。


どこを探しても、半熟卵の姿はなかった。

壁の写真には、確かに堂々とのっていたはずなのに。


胸がざわつき、指先に汗がにじむ。


(どうする……? 今さら言うのか? でも、もうこんなに食べてしまった……)


視線を壁のメニューにやった。

やはり、中央に黄身が溶けだした半熟卵が鎮座している。


とっさにメニューを手に取り単品トッピングのページを開く。


「トッピング半熟卵:税込118円」と書かれていた。


(ルーローハン本体価格……877円。

この中に半熟卵代が含まれてるってことだよな…)


さらに頭の中で計算が始まる。

118円。スーパーなら卵は1パックで300円程度。

つまり1個30円くらい?


(30円のために声を上げるのはセコいか? いや、でも118円分損したとも言える……!)


箸を止めたまま、森田は堂々巡りに陥った。


(損か? いや、誤解か? 声を上げれば卑しいと思われる? でも黙れば一生後悔する?)


喉がひりつき、心臓が早鐘を打った。



意を決して、森田は声をかけた。


「す、すみません……」


その瞬間、店内の空気が固まった。


カチャリ、と食器の音が止み、客たちが一斉に振り向く。

無言の視線が森田を射抜いた。


沈黙。

その圧力に胸が押し潰される。



慌ててもう一度、声を出す。

「……すいま……せん」


しかし声が小さすぎて、それを見かねた隣の中年客が立ち上がった。

「おい!すいませーん!この人が呼んでるよ!」


店内に響く大声。森田の顔は一気に赤くなった。


奥から店員が駆け寄り、笑顔のまま言った。

「少々お待ちください」


それきり……店員は来なかった。



時間だけが過ぎていく。


客は再び食事を始めたが、森田の耳にはひそひそ声がこびりついていた。


「卵……」

「卵、なかったんじゃない?」

「言えばよかったのに……」


本当に聞こえたのか、自分の頭が勝手に反響させているのか。

分からない。


背中に冷や汗が伝い、身体は小さく縮こまっていく。


森田は、「食べ続けるか」「もう一度言うか」の間で、身動きが取れなくなった。



しばらくして、ようやく森田はスマホを取り出した。


「料理 写真と違う クレーム 言うべきか」


検索結果が表示された。


「八分目まで食べてしまったなら遅いかもしれませんが、店舗によってはクーポン券などのサービスが受けられることも。正直に伝えましょう」


(クーポン券……!)


藁にもすがる思いで、森田は残りのルーローハンをかき込み、会計へと進んだ。



レジの前で、ノアが微笑んでいた。


至近距離で見るその顔は、芸能人のように整いすぎていて、森田は一瞬言葉を失った。


喉を震わせ、やっと絞り出す。


「す、すみません……ク、クーポン券いただけますか……?」



沈黙。



卵のことは一言も触れられなかった。


ノアは完璧な接客スマイルを浮かべたまま答えた。


「クーポン券の配布は来月からなんです。またのご来店をお待ちしておりますね」


その声は澄み切っていて、どこまでも優しかった。


森田は顔を真っ赤にしてうなだれ、逃げるように店を出た。



店の窓辺に立ち、ノアはその背中を見送った。

黒いマスクを外し、ぽりぽりと頭を掻く。


「……やっぱり、アイテムを渡した方がよかったのかな」


彼は苦笑を浮かべると、また店員の顔に戻り、次の客を迎えるためにレジへと立った。


森田は会計を終えて店を出ると、受け取ったレシートを気まずそうにくしゃくしゃと握りつぶした。

中身を見ることなく、近くのゴミ箱へと放り込む。


紙片は、ゆっくりと沈んでいった。

そこには確かに印字されていた。


「半熟卵 −1個」



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