青い傘の男
世界のどこかで、ふと出会うことがある。
その名はノア。
人にも、妖精にも見える存在。
ノアはただ、あなたにひとつの道具を差し出すだけ。
それをどう使うかは、あなた次第。
行き着く先を、ノアは静かに見届けている。
***
岸本啓悟は、生まれたときから、どこか壊れていた。
他人の涙を見ると胸が温かくなり、怒りや絶望の声を聞くと安心した。
幼いころ、母に何度も叱られた。
「啓悟、人の悲しい顔を見て笑っちゃだめよ」
それでも啓悟は笑った。
泣くという行為が、世界でいちばん“生きている”音に聞こえたからだ。
学校では浮いた。友人は離れ、教師は距離を取った。
「共感性が欠けている」「冷たい子だ」と言われ、
やがて精神科の白い部屋へ通うようになった。
医師は何冊ものカルテをめくりながら、
「情動反応の異常」と口にしたが、啓悟にはその意味が分からなかった。
彼にとって悲しみは――
他人ではなく、自分を確かめるための道具だった。
ある梅雨の日、啓悟は傘を差さずに歩いていた。
舗道を叩く雨粒の音が、どこか心地よかった。
人々は急ぎ足で傘を傾け、誰も空を見上げようとしない。
その中でひとり、道端に立つ男がいた。
銀髪に灰色の瞳。
どこか人間離れした静けさを纏っている。
その男――ノアは、閉じたままの青い傘を持っていた。
「その傘は、人の涙を吸います」
ノアは淡々と告げた。
「けれど使い続ければ、あなた自身の心も少しずつ雨の中に溶けていく」
啓悟は笑って受け取った。
「それでいいです。……悲しみを聞けないと、眠れないんです」
傘の布地には、淡い光の波が浮かび上がっていた。
ノアは一瞬だけその表情を曇らせたが、何も言わず、雨の中に消えた。
それから啓悟は、雨の日だけ街に出るようになった。
泣き崩れる女。
傘を忘れて濡れたまま歩く老人。
振られて立ち尽くす男。
啓悟は黙って傘を差し出す。
雨粒が傘の内側に吸い込まれるたび、
相手の顔に微かな安堵が戻る。
だが、その瞬間、啓悟の胸の奥で何かが疼いた。
冷たく甘い、満たされるような感覚。
――これが欲しかった。
啓悟はその感覚を“悲しみ”と呼んだ。
けれどそれは、本当は他人の苦痛をなぞる悦びだった。
いつの間にか、街では“青い傘の男”が噂になっていた。
会うと心が軽くなる。
でも、その顔を誰も覚えていない。
啓悟の姿は、雨の粒のように曖昧になっていった。
梅雨が終わり、夏が来た。
空はどこまでも青く、雲は乾いている。
啓悟は部屋の隅で膝を抱え、スマホの画面を凝視した。
ニュース、事故、悲劇――どんな言葉を読んでも、
胸の奥には何の響きも生まれない。
“雨のない世界では、生きていけない。”
啓悟は何度もその言葉を呟いた。
夜になると風呂の水面を撫で、
それが雨音に似ていないかを確かめた。
けれど、どんなに耳を澄ましても、
悲しみの音は帰ってこなかった。
やがて、彼は誰かの涙を求めて外に出る。
空は晴れているのに、足は無意識に路地裏へ向かう。
乾いたアスファルトの上に、
たったひと粒の雨が落ちた。
啓悟は息を呑み、青い傘を開いた。
世界が静まり返った。
周囲の音がすべて水に沈む。
次の瞬間、
見知らぬ部屋の泣き声が、頭の中に響いた。
抱きしめられない母親、失恋した男、
病室の片隅で手を握る誰か。
そのすべての“悲しみ”が、傘を通じて啓悟の身体に流れ込む。
彼の皮膚が啓悟き通り、輪郭が溶け出す。
声も、心も、音に変わっていく。
――これが、世界の呼吸か。
啓悟の唇がかすかに動いた。
彼は嬉しそうに微笑みながら、
ゆっくりと歩道の端に消えていった。
翌朝、路地裏に青い傘が一本だけ残されていた。
布地の内側には、無数の小さな光――
まるで涙が星になったように瞬いていた。
ノアは傘を拾い上げ、
雨上がりの空を見上げた。
「悲しみを集めていたんじゃない。
彼は、それを味わいたかったんだ。
人の痛みを舐めるように確かめることでしか、
自分を感じられなかった。」
傘の内側で、水の膜がかすかに震える。
ノアの声を、どこかが聞いていた。
「彼は消えたわけじゃない。
ただ、雨が降る街を渡り歩いているだけ。
次の“悲しみ”を探して。」
遠く離れた別の街。
灰色の空の下、
ひとりの男が歩道の片隅で傘を差していた。
その顔は穏やかで、どこか懐かしい。
傘の内側からは、かすかな嗚咽が響く。
彼はそれを聞きながら、小さく微笑んだ。
「……きれいな音だ。」
通り過ぎる誰も、その男に気づかない。
ただ、雨だけが彼を歓迎するように落ちていた。
ノアは、遠くその景色を見つめながら静かに呟いた。
「孤独は消えない。
けれど彼の孤独が、誰かの涙を少しでも軽くするなら――
それも、ひとつの“雨のかたち”なんでしょう。」
青い傘がまたひとつ、
知らない街でゆっくりと開かれた。




