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恋を忘れる紅茶

世界のどこかで、ふと出会うことがある。

その名はノア。

人にも、妖精にも見える存在。

ノアはただ、あなたにひとつの道具を差し出すだけ。

それをどう使うかは、あなた次第。

行き着く先を、ノアは静かに見届けている。


曇った午後の街角。

小さな喫茶店「ムーンティールーム」の窓際で、

湯気をまとった紅茶の香りが、疲れ切った心をやさしく包んでいた。


「あなた――少しだけ、記憶を軽くしたいんじゃないですか?」


白い指先が、ひとつの瓶を差し出す。

琥珀色に透けるラベルには、

『Sayonara Blend』


そして、その下に小さく書かれた英字。


Memory fades in warmth.

(ぬくもりの中で記憶は薄れる)


ノアの声は、遠い波のように静かだった。



***



渡辺美咲、32歳。

出版社勤務、そこそこ仕事もできる。

けれど、恋愛はいつも同じ終わり方をしてきた。


恋人――遼。

3年の付き合い。

最初は理想の人だった。優しくて、真面目で、どこか少年っぽい笑顔。

けれど、その優しさはいつの間にか、檻のように彼女を閉じ込めていった。


「仕事の飲み会?男は来るの?」

「写真送って。どんな店?」

「今すぐ電話出て。」


束縛。監視。独占欲。

それを“愛”だと信じていた時期もあった。

けれど、もう疲れていた。


別れを切り出すたびに、彼は泣いた。

「お前がいないと生きていけない」

その言葉を何度も聞いた。

でも――自分だって、そろそろ“生きられない”と思っていた。


そんなある日。

会社帰り、ふらりと立ち寄った喫茶店で、ノアと出会った。




「この紅茶を一杯飲むと、

 あなたの“存在”が、彼の心からゆっくり薄れていきます」


ノアは、まるで風のように微笑んだ。

美咲は、その言葉を疑う余裕もなく、ただ頷いた。


その夜。

カップに注いだ紅茶は、ほのかに蜂蜜のような香りがした。

飲み干すと、胸の奥があたたかくなり、目の奥が少し霞んだ。


翌朝。

遼からのメッセージは短かった。


「今日は会えないかも」



それだけ。

いつもなら「どこ行く」「何してる」「誰と?」が並ぶはずなのに。


数日後、連絡が止んだ。

偶然、街で見かけた彼は、穏やかな顔で言った。


「すみません、どこかで……お会いしました?」


――まるで初対面のように。


美咲は笑って答えた。

「いえ、たぶん……人違いです」


その瞬間、胸の奥に吹いた風は、

涙よりも、少し甘かった。



半年が過ぎた。


仕事も順調で、生活も安定していた。

恋人のいない日々は、静かで穏やかだった。

もう、誰にも支配されず、誰かの顔色をうかがうこともない。


――そう思っていた。


ある日、商店街の古本市で、美咲は彼と再会した。

遼。

けれど、どこか違っていた。


目の奥にあった影は消え、

人懐っこい笑顔が戻っていた。

ワイシャツの袖をまくり上げた腕が、

あの頃より少しだけ逞しく見えた。


「すみません、どこかで……」

遼の声が柔らかく、美咲の心が音を立てた。


「……初めて会った気がしませんね」

「俺も、なんか……懐かしい気がする」


その一言で、心がほどけた。


カフェで向かい合い、

他愛ない話をして笑い合った。

彼は以前より優しく、落ち着いていて、

彼女の言葉をちゃんと最後まで聞いた。


美咲は思った。

――彼、変わったんだ。もう大丈夫。


それから二人は、再び恋に落ちた。


桜並木の下で写真を撮り、

夏には海でスイカを食べ、

秋には小さなアパートで鍋を囲んだ。


「来年の春、結婚しよう」

遼がそう言った夜、

美咲は涙をこぼしながら笑った。


心のどこかで警鐘が鳴っていた。

でも、紅茶の瓶のことは、もう思い出せなかった。


幸福とは、記憶の上に積もる雪のようなものだ。

あたたかくて、すぐに溶ける。



冬の朝。

ベランダから見える空は白く霞み、

カーテンの隙間から陽が差し込む。

ベッドの中、美咲は遼の腕に抱かれていた。

寝息が心地よく、世界がやさしく見えた。


けれど――幸福の時間は、静かに終わりを告げる。


スマホが鳴る。

「どこにいる?」

「今日は何時に帰る?」

「男はいる?」


既視感。

言葉の順番まで、あの頃と同じだった。


夜になると、彼の声が冷えた刃のように胸を切った。

「浮気してるだろ」

「俺がいなきゃお前は何もできない」


まるで、同じセリフが再生されているようだった。


美咲は泣きながら棚を探した。

紅茶の瓶。

――あった。


けれど、中身は空だった。


それでも、震える手で瓶を傾けると、

かすかな香りが漂った。

紅茶ではなく、懐かしい記憶の香り。


カップの底には、遼の名前がゆっくりと浮かび上がる。

まるで、彼の存在そのものが沈殿しているように。


「……また、同じなのね」


その背後で、ノアが静かに言った。


「それが、あなたの選択の味です。

 愛は消しても、また芽吹く。

 だから人は、何度でも紅茶を淹れるのです。」


美咲は涙を拭き、微笑んだ。


「……また、恋をしてしまうんですね」


ノアは頷き、

紅茶の香りの中に消えていった。


琥珀色の液面がゆらぎ、

カップの底で、遼の名前がやさしく溶けていく。

それは、

まるで“またね”と言うように光を放った。



その夜、窓の外では雪が降っていた。

街灯の下を、ふたりの影がすれ違う。


男は振り返らず、

女は一瞬、立ち止まった。


雪の香りと、紅茶の残り香が混ざる。


ノアは、遠くの屋根の上からその光景を見つめ、

静かに小さく呟いた。


「恋は、記憶よりも根深い。

 だからこそ――

 忘れることも、また愛なんです。」


紅茶の香りが、ゆっくりと夜に溶けた。



The Sayonara Blend

(ぬくもりの中で記憶は薄れる)

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