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休む理由

世界のどこかで、ふと出会うことがある。


その名はノア。人にも、妖精にも見える存在。

ノアはただ、あなたにひとつの道具を差し出すだけ。

それをどう使うかは、あなた次第。

行き着く先を、ノアは静かに見届けている。



***



藤川みなみ、26歳。

カフェ、アパレル、派遣事務を転々とするフリーター。

“ずる休み”の達人としては、もうベテランの域に入っていた。


「おばあちゃんが倒れて……」

「すみません、発熱しちゃって……」

「電車が止まってて……」


声のトーン、間の取り方、息を吸うタイミング。

彼女の“欠勤電話”は芸術だった。

だが最近――その職人芸にも限界が来ていた。



朝。

目覚ましのアラームが3回鳴っても、体が動かない。

カーテンの隙間から光が差し、部屋の中のほこりがゆらゆら漂っている。


「……行きたくないなぁ。」


みなみは天井を見つめながらつぶやいた。

「どうしよ。今日なんて言おうかな……」

スマホを手に取り、会社の番号を開く。


「うーん、熱? もう三回目だしな……」

「祖母? 先週も倒れてたしな……」

「じゃあ犬……いや、犬も一回逃げてるしな……」


ひとりでブツブツ言いながら、毛布に潜り込む。

「やば、そろそろかけなきゃ」


スマホを見つめながら深呼吸。

「よし、ゴホゴホ……ゴホゴホッ……!」

わざと咳をして、声を少し低くする。


「すみません……今日ちょっと熱が出て……」


電話口の上司は、若干のため息まじりに答えた。

「……また? 無理しなくていいけど、そろそろ出勤調整考えようか」


その言葉が、胸に刺さった。

(あ、やっぱバレてる。もうダメかも……)




電話を切ったあと、みなみは天井を見つめたまま呟いた。

「さすがにもう限界だなぁ……」


嘘をつくたび、心は軽くなるはずだった。

でも今は、嘘の中に自分が沈んでいくような気がする。


その日の夕方、出勤途中のカフェに寄ると、

白いジャケットの青年がテラス席に座っていた。

不思議と風がその人だけを避けるように吹き抜けている。


「どうしたの? そんな顔して」


みなみは思わず立ち止まった。

「いや……言い訳がもう出てこなくて……」


青年――ノアは、少し微笑んで、透明な万年筆を差し出した。


「これを使えば、どんな理由も浮かんでくる。

 しかも、どんな嘘でも、みんなが信じてくれるよ。」




「え? そんなのあったら、バイト辞めるまで休み放題じゃん」

冗談まじりに笑いながら、彼女はペンを受け取った。


「じゃあ……明日は“電車止まった”って書いてみよっかな。」


笑いながら、ポケットにそのペンをしまい込む。

まさかそれが、

彼女の人生で最後の“言い訳”になるとは知らずに――。




ペンの威力を知ったのは、翌朝だった。

出勤予定時刻の一時間前。

ぼんやりした頭でニュースアプリを開いた瞬間、

“沿線事故で全線運転見合わせ”の速報が飛び込んできた。


「……え?」

昨日ノートに書いた言葉が、

ニュースのテロップと重なった。


『電車が止まったので出勤できません』

――本当に止まっていた。


みなみは、スマホを握りしめたまま笑ってしまった。

「マジで? え、なにこれ……本当に使えるじゃん。」


その日、職場から届いたLINEには

「大丈夫?怖かったでしょ、今日はゆっくりしてね。」と書かれていた。

“またやっちゃった”という罪悪感よりも、

“誰かに心配される”ことの甘さが勝った。


それから、みなみはノートに嘘を書くことを習慣にした。


「親戚の結婚式で」→ おめでとうLINEが届く。

「自転車で転んで」→ ひざに薄いあざができる。

「発熱しました」→ 夜、体温計が37.9℃を指す。




奇跡でも、偶然でもなかった。

書いたことが、現実になった。

信じられなかったけれど、

ペン先の光が「これは当然」とでも言うようにゆらめいた。




数日後、みなみはふと気づいた。

ノートの中の嘘が、“現実より現実っぽい”のだ。


「祖母が危篤で」

――夜、母から電話。「おばあちゃん、病院に運ばれたの」


「高熱が出て病院へ」

――目覚めたら、喉が焼けるように痛い。


「急な台風で家が停電して」

――天気予報にはない突風が、窓を鳴らした。


ペン先を紙から離すたび、

現実が後ろからそれを追いかけてくる。


恐怖より先に、奇妙な“安心”があった。

――もう、理由を考えなくていい。


書けば、世界が合わせてくれる。

何も考えずに、ただ休めばいい。


みなみはいつしか、ノートのページを埋め尽くすようになっていた。

理由は、どんどん過激になっていく。


「葬式で遠方に行く」

「事故で記憶喪失になった」

「自分が行方不明になったことにする」




そして、その最後の一文をノートに書いたとき。

空気が止まった。


窓の外の街は灰色で、

カーテンの隙間からの光がゆっくりと凍りついているようだった。


スマホの通知音も、時計の針の音も、

全部、音をやめていた。


みなみは、ノートを見つめながら小さく笑った。

「……やっと休める。」


ペン先が最後の光を放ち、すっと消えた。



翌日。

バイト先のLINEグループに店長のメッセージが届いた。


「藤川さん、誰か連絡取れた? 既読がつかないんだ」

「電話も出ないって」


みんな心配して、スタンプを押す。

“早く元気になってください”

“待ってます”


だが、みなみの部屋には誰もいなかった。

スマホの画面は真っ暗で、机の上には開かれたノート。


最後のページに、ゆらぐような筆跡でこう書かれていた。


「今日だけは、本当に休みます。」




透明なペンは、すっかり色を失っていた。

ペンの中の光が消えた瞬間、

部屋の中の時計も、ぴたりと止まった。


窓の外。

街は静かで、風だけが少し笑っていた。


ノアは建物の影から空を見上げていた。

その瞳には、どこか寂しげな光が宿っている。


「人は、“働かない”ことを恐れるよりも、“休む理由を失う”ことのほうが怖いんだ。」




ペンを指先でひねると、

淡い光の粉が風に散って消えた。


やがて風は部屋に入り、

ノートのページを一枚だけ静かにめくった。

そこには、何も書かれていなかった。

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