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潮の星 Sea of Star

世界のどこかで、ふと出会うことがある。

その名はノア。人にも、妖精にも見える存在。

ノアはただ、あなたにひとつの道具を差し出すだけ。

それをどう使うかは、あなた次第。

行き着く先を、ノアは静かに見届けている。


***


夜の崖の上に、ひとりの男が立っていた。

高梨修司、三十代。

どこにでもいる普通の男――ただ、少し疲れ果てていた。


「仕事も、家も、夢も……もう、なくなったな」


声は波にかき消され、月だけが冷たく見下ろしていた。

修司はポケットの中で拳を握りしめ、

かすれた声で呟いた。


「星になりたい」


そう言って、ふっと笑った。

誰に向けた笑いでもない。

ただ、静かに柵を越えて、夜の海へ身を投げた。


海の闇が、全身を包み込む。

息が止まるはずなのに、不思議と苦しくなかった。


――その時、光があった。


海の底から、淡い銀の光が浮かび上がる。

光の中に、白い髪の青年が立っていた。

透き通るような瞳、どこか人ならぬ静けさ。


「星になりたいのか?」


声は水の中でもはっきりと聞こえた。

青年――ノアは、小さな瓶を差し出す。

中で星屑のような粉がくるくると舞っていた。


「星は、空にいるだけじゃない。

 海の底にも、星はあるんだよ」


ノアが瓶を傾けると、銀の粉が潮に溶けた。

光が修司の身体を包み、

世界がゆっくりと反転していく――。



指先が柔らかくほどけていく。

骨の感覚が消え、皮膚がざらざらと変質する。

指は腕に、腕は枝のように広がり、

五本の腕が自分の意志とは関係なく動いた。


「な、なんだ……これ……!」


息ができない。

けれど、苦しくもない。

身体全体で潮を吸い込み、潮を吐いている。


目を開けると、海の中が虹の布みたいに輝いていた。

サンゴが壁のように連なり、

魚たちが光の粒のように行き交っている。


その瞬間、修司は悟った。

――自分はもう人間じゃない。


海の底で光を反射する、星のような存在。

そう、ヒトデになっていたのだ。


潮が流れるたびに、全身がふわりと浮かび、

光の粒が皮膚を撫でていく。

波に抱かれながら、

彼は初めて“安らぎ”というものを知った。


「これが……星になるってことか」


心のどこかで、そう呟いた。



時間の感覚がなくなった。

潮が満ちれば昼、引けば夜。

それだけで十分だった。


サンゴの森の奥では、ヤドカリが貝殻を叩いて挨拶し、

エイは絨毯のように砂地を覆って通行料を取る。

「支払いは背中をくすぐること」――そんなルールまである。


夜になると、ホタルイカたちが

光のシャンデリアのように群れをなして泳ぐ。

クラゲは月明かりの代わりに、海底を優しく照らす。


修司は、海の一部になっていた。

光と潮を食べ、

ときどき流れ着く巻き貝を吸っては笑う。


腕を絡ませて“会話”する仲間もできた。

声じゃなく、潮の振動で伝わる言葉。


その中に、ひときわ鮮やかな橙色のヒトデがいた。

腕の縁が金糸のように光り、吸盤が微笑んで見える。

彼女にふれるたび、潮が甘く震えた。


――名前なんてない。けれど、確かに惹かれていた。


ふたりは「潮レース」で遊び、

サンゴの街を滑るように駆け抜けた。

腕を広げれば広げるほど、潮は歓声のように震える。


そして夜には「夢のぞき」。

海面に触れて、上の世界を覗く。

そこには、懐かしい夢の欠片――

畳の目、黒電話、かき氷の音、笑い声。


彼女が言った。

――君は、あそこにいたことがあるのね。

修司は答える。

――たぶん。でも、今はここにいる。


潮が、静かにやさしく揺れた。



その日、海がざわめいた。

遠くで鳴る太鼓のような低音。

嵐が近づいていた。


潮の温かさが冷たくなり、

サンゴの街が音を立てて崩れていく。


修司は彼女と腕を絡めた。

でも、流れは強く、ふたりを引き離していく。

五本の腕がほどけ、

最後に吸盤が、やさしく震えた。


――またね。


そして世界が転覆し、

闇が口の中まで満ちていった。


目を覚ますと、

砂の上に寝転がっていた。

光、風、そして空。


腕を見れば、指が十本。

人間の姿に戻っていた。


手のひらには、橙色の小さな欠片。

吸盤がふたつ、微かに呼吸していた。



年月が過ぎ、

修司は都会で、ただ淡々と日々を重ねた。

でも時々、夜中に手のひらが温かくなる。

橙の欠片は消えたのに、そのぬくもりだけが残っていた。


ある日、出張で訪れた海辺で、修司は立ち止まった。

潮の匂いが胸の奥をくすぐる。

波の間に、橙色の光がひるがえった。


――またね。


誰に言ったのか、自分でもわからない。

でも潮は、その言葉に応えるように、足首を撫でた。


崖の上で、ノアが静かに見ていた。

潮風が彼の髪を揺らし、瞳の奥で海が反射する。


「人は、星になりたいと言うけれど、

 本当は“海に還りたい”のかもしれないね」


ノアの掌の上で、瓶の中の銀の粉が消える。

代わりに、潮の中にひとつの星が光った。


それはもう、空の星ではない。

海の底で、静かに瞬く――

潮の星だった。

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