シニア向けUSB
世界のどこかで、人はふと出会う。
ノアと名乗る者に。人にも、妖精にも見える、どこかこの世の輪郭から半歩ずれた存在。
ノアはただ、あなたにひとつの道具を差し出すだけ。どう使うかはあなた次第。
行き着く先を、ノアは静かに見届けている。
***
「先生、パソコンの電源ってどこですか?」
開講一分、最初の質問は大抵これだ。
シニア向けパソコン教室の室長、宮田は笑顔で本体の右上を指さす。
「ここですよ、丸に棒が刺さったマーク、覚えてくださいね」
「丸に棒……あら、将棋の駒みたいねえ」
「先生、クリックって、爪切りで切るんですか?」
「切らないです。押すだけです」
「押すだけ……じゃあ、二回切りは?」
「それはダブルクリック。切りません、押すだけです」
「先生! ゴミ箱に孫の写真を捨てちゃった!」
「大丈夫、“戻す”で救えます。人生もこうやって戻せたらいいんですけどね」
「まあ先生、口が悪いのに優しいわね」
十台のノートPCが教室の長机に並び、電源ボタンを探す人、Caps Lockを押してパスワードが通らず首をひねる人、マウスを持ち上げて空中を操縦する人。
宮田は汗をかきながらも、椅子の間を縫って走る。
「そのマウス、持ち上げると飛びません」
「いま押したのは“貼り付け”じゃなくて“祈り”ですか? 手を合わせないでください」
「USBは向きが合わないと刺さらない……はい、合っても刺さらない……一度抜いて、上下を替えて……あ、いまのは上下を同じに戻しました」
笑いと小さな悲鳴と、Windowsの起動音。
この日常は地獄に似て、そして妙に愛おしい。
昼休み、宮田はレジ袋の焼きそばパンをかじり、空の教室を見回した。
壁のポスターには「今日からあなたもネットデビュー」「孫と写真を共有しよう」。
家賃、光熱費、広告費。収支は真っ赤だ。
若者はスマホで全てを済ませ、シニアはタブレットの大きなアイコンに逃げた。
パソコン教室は、ゆっくりと化石になりつつある。
「この仕事、まだ誰かの役に立てているんだろうか」
独り言は、起動音よりも小さく教室に沈んだ。
夕方、教室を閉めたあと、宮田は近くの公園のベンチに座った。
黄色い街路樹の葉が風に踊る。
ベンチの端には、白いシャツに淡いジーンズの青年が座っていた。無造作に整えた髪、気取らないのに清潔感がある。
視線が合うと、彼は微笑む。
「君は、教えることを教えているのに、誰に届いているのか分からなくなっている」
不思議な声だった。
言葉が耳ではなく胸に落ちてくる。
青年はUSBメモリほどの銀色の小物を取り出した。
表面に小さな青いランプがあり、触れると体温のような温もりがあった。
「“学びのUSB”。差し込めば、相手が本当に学びたいことが、君にだけ見える。レッスンの迷子を、少し減らせるよ」
「あなたは?」
「ノア。通りすがりの……そうだな、道具好き」
ノアはそれ以上名乗らず、宮田の手にUSBを置いた。
青いランプが一瞬だけ、星の瞬きのように光る。
翌日。
宮田はUSBを教室の講師機にそっと差し込んだ。
「先生、孫にメールを送りたいの」
おばあちゃんのディスプレイの隅に、宮田にだけ見える小さな文字が浮かぶ。
《本当に学びたい:言葉にできない“会いたい”を、文字で渡す方法》
「メールの件名は“ただいま”にしましょうか。本文はゆっくりで大丈夫です」
「先生、古い写真がバラバラで」
《本当に学びたい:亡き夫の時間を、フォルダで並べ直す》
「写真の“撮影日”で並べ替えてみましょう。ほら、若い頃からの順番が戻ってきます」
泣き笑いの午後だった。
孫に初めてスタンプを送ったおばあちゃんが椅子ごと跳ね、亡夫の写真をアルバムに収めた男性は帽子を取って深く礼をした。
USBは確かに奇跡を運んだ。
教室の空気はふっくらと温かいパンみたいに膨らみ、宮田は何度も胸の奥で「よかった」を噛み締めた。
けれど、歯車がかすかに軋み始めるのも早かった。
「先生、ネットで昔の恋人を探したいんだけど」 《本当に学びたい:未練の所在》
「……名前、漢字はこれで合っていますか?」
「先生、息子がね、私の通帳を勝手に……ええ、だからネットで調べたいの。“遺言”の作り方」 《本当に学びたい:家族の力関係の編集》
「法的なことは専門家へ。今日は“情報を探す方法”だけにしましょう」
「先生、あの人に復讐する方法って検索したら……」 《本当に学びたい:怒りの燃料》
宮田はモニターをそっと閉じた。
「検索の練習、今日は別の例題に変えましょう」
笑いは薄まり、沈黙が増えた。
USBがあぶり出す“本当に学びたいこと”は、甘い願いだけではなかった。
それでも宮田は、道具の力を信じたかった。
正しく使えば、きっと誰かを助けられる。
そう思い込むことは、彼の仕事の骨そのものだった。
その日、教室は満席だった。
パソコンのファンが一斉にうなり、窓の外には夕立の気配がぶらさがる。
「先生、これ見て。SNSってすごいのね」 《本当に学びたい:かつて自分を裏切った人の名前を、世界に放つ》
「実名や個人情報は絶対に書いちゃいけません」
「先生、暗号資産って儲かるの? 退職金を……」 《本当に学びたい:一発逆転》
「まず“詐欺の見分け方”からやりましょう」
「先生、孫がいじめられてる。相手の家を特定したい」 《本当に学びたい:制裁》
「……今日はパスワードの管理の回でしたね。そこから始めましょう」
次の瞬間、はじけたのは、キーではなく人の感情だった。
「おまえ、さっき私の画面を覗いただろ」
「覗いてないわよ!」
「先生、この人が私のメール勝手に……」
「違う違う違う!」
椅子が軋み、マウスが床を滑った。
宮田は大声を出した。
「みなさん、落ち着いて!」
青いランプが、ぽつりぽつりと赤に滲む。
教室に、雨が打ち付ける音が重なった。
「先生。先生は、何を学びたいの?」
声はノアのものではなかった。
USBの青と赤が交互に明滅し、講師機のモニターがふっと暗くなったかと思うと、そこに文字が浮かぶ。
《本当に学びたい:若かった頃の自分に、もう一度なりたい》
胸の奥がぎゅっとつかまれたように痛い。
宮田は誰にも見えないように手で画面を隠した。
――戻れたら、やり直せたら。
教室のざわめきが遠のく。雨音だけが網膜の裏で増幅される。
画面が切り替わった。
懐かしいWindowsの草原。さらに遡って、ブラウン管の砂嵐。
子どもの頃の自分が、家の机でタイピングを練習している。父が笑い、母が麦茶を置く。
その指が、いまの自分のキーボードに重なる。
「先生?」 生徒の声が遠い。
宮田はマウスにそっと手を置いた。クリック。
画面の向こう側で、誰かが振り向いた。小さな自分だ。
手を振る。
――だめだ。戻れない。
そう気づいたとき、USBのランプは一瞬だけまっ白く光り、すぐに消えた。
ざあっと音がした。
雨ではない。教室の十台のモニターが同時に青い画面を吐き、英数字の無機質な悲鳴を並べ始める。
「わああ」
「止まっちゃった」
「消えた! 私の年賀状が!」
宮田は椅子から立ち上がり、口を開いた。
声が出ない。喉の奥に、砂のような後悔が詰まっていた。
その夜を境に、教室は崩れた。
翌日、クレームの電話が鳴り続ける。
「個人情報が流出したらどうする」
「このUSBって勝手に入れたんですか」
「先生、昨日の件で夫と喧嘩しました。責任を取ってください」
スタッフは一人、また一人と辞めた。
生徒の予約表は、朝露のように消えた。
鍵束が重い。
シャッターを半分だけ下ろした教室の中、宮田は椅子に座る。USBはポケットの内側で冷え切って、もう光らなかった。
夕暮れ、誰もいない教室にノアが立っていた。
「君は、よくやったよ」
「失敗しました」
「学ばせようとした。学びは、時に“知らないままでいる権利”を侵す。知ることは、刃にも薬にもなる」
ノアはテーブルの上のUSBを指先で転がし、淡い声で続けた。
「道具は、正直だ。相手の“本当に学びたい”を映しただけ。だから残酷だった」
宮田は笑った。
声は少しだけ出た。「僕の“本当に学びたい”は、結局、過去に帰ることでした」
「みんな、そうだよ」
ノアはUSBをつまむと、軽く振った。ランプは灯らない。
「返しておく。君が決めることだ」
数週間後。
教室は閉じた。看板は外され、窓にはテナント募集の紙。
通り雨のにおい。
歩道の向こうで、かつての生徒たちがスマホを片手に笑っている。孫とビデオ通話をしているのかもしれない。
宮田は鍵束をポケットにねじ込み、最後の戸締まりをした。
ふと、背後で小さな声がした。
「先生、電源ってどこですか?」
振り向いても誰もいない。空気だけが、笑い話の続きの場所を指していた。
ノアは、少し離れた電柱の影で空を見上げていた。
「学びは本来、希望を繋ぐもの。けれど、人の欲望まで学びにしてしまったら、教室はたちまち戦場になる」
彼はポケットからUSBを取り出すと、親指でそっとなでた。青いランプは灯らない。
「それでも――君が教室で起こした小さな奇跡は、ちゃんと残ったよ。孫に“ただいま”を送れた人の胸の中に」
ノアは歩き出す。雨上がりのアスファルトに、教室の窓がぼんやりと映っていた。
そこには誰もいない。けれど、キーボードを叩く気配だけが、まだ微かに、世界のどこかで続いているように思えた。




