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権力ネクタイ

世界のどこかで、ふと出会うことがある。

その名はノア。人にも、妖精にも見える存在。

ノアはただ、あなたにひとつの道具を差し出すだけ。

それをどう使うかは、あなた次第。

行き着く先を、ノアは静かに見届けている。


***


田村啓介は、控えめな男だった。

社内で10年以上働き続け、誰よりも資料作成は正確で、業務改善のアイデアも豊富に持っていた。


だが、声は小さく、発表の場では緊張で言葉を噛み、結局誰にも届かない。

「田村くんは実力はあるんだけどね、華がないんだよな」

上司の何気ない言葉が、胸の奥に錆びた釘のように刺さり続けていた。


(俺だって、本当は……ちゃんとやれるんだ)


その夜。

帰り道、人気のない駅前のベンチで足を止めると、黒いマスクをつけた青年が座っていた。


黒髪をセンターで分けた中性的な美貌。街灯に照らされた横顔は現実離れしていた。


「君の声が届かないのは、君のせいじゃない」


田村が驚いて振り向くと、青年は立ち上がり、黒いネクタイを差し出した。


「これを締めれば、君の言葉に力が宿る。皆が耳を傾けるよ。ただし……どう使うかは君次第」


田村は吸い寄せられるように、そのネクタイを受け取った。




翌日。

会議室で意見を述べる時、田村は試しにネクタイを締めてみた。


その瞬間、胸の奥から不思議な自信が湧き出した。


「新しいシステムを導入すれば、作業効率は三割上がります」


今までなら流される一言のはずだった。

だが同僚たちは顔を上げ、上司も真剣に頷いた。


「なるほど、田村の言う通りだ」

「確かに現実的な提案だな」


田村は胸が熱くなった。

(俺の声が……届いている!)


その後も発言を重ねるたび、部下や上司は素直に耳を傾け、会議は彼を中心に回り始めた。


初めて人の輪の真ん中に立つ感覚に、田村は心から震えた。




だが、次第に変わっていった。


(俺が正しい。俺の意見こそが最善だ)


自分の考えを絶対視し、他人の意見を遮るようになった。


部下の成果を自分の手柄として発表し、同僚を見下す言葉を口にする。


ネクタイを締めるたび、声に重みが宿り、誰も逆らえなかった。


その快感は、かつての慎ましい自分を完全に忘れさせていった。



会議の場で田村は高らかに叫ぶ。


「私の企画に異論がある者はいるか!」


誰も手を挙げなかった。


やがて、まばらな拍手が起こり、それは次第に揃ったリズムに変わった。


「その通り」

「素晴らしい」

「さすが田村さん」


無表情の同僚たちが一斉に同じ言葉を繰り返す。

その声は称賛ではなく、機械的な反響のように聞こえた。


(……これは、本当に俺を認めてるのか?)


不安が胸をかすめたが、権力に酔った心はその違和感を振り払った。




ある夜。

田村は遅くまで会議室に残り、空席に向かって演説を続けていた。


ネクタイをきつく締め、声を張り上げる。


「私は正しい! 私の言葉に従え!」


拍手が響いた。

見渡すと、椅子に座る同僚たちの顔が浮かび上がっていた。


ただし……

無表情のまま、口だけを動かし、同じ言葉を吐き続ける。


「素晴らしい」

「その通り」

「さすが田村さん」


背筋に冷たいものが走った。


(違う……本当の声が欲しい……!)


田村はネクタイを引き剥がそうとした。


だがネクタイの布はまるで生き物のように喉に絡みつき、じりじりと締め付けていく。


「ぐっ……はっ……!」


指をねじ込み隙間を作ろうとしても、まるで意思を持つかのようにさらに深く喉へ食い込む。


皮膚が焼けるように熱く、血管が浮き出し、頭に血がのぼっていく。


呼吸が奪われ、胸が必死に空気を求めて膨らむ。


しかし吸い込むのは、乾いた拍手の音だけだった。


視線を上げると、目の前に座る同僚たちが無表情のまま拍手を続けていた。


口元だけが動き、同じ言葉を繰り返す。


「素晴らしい」

「その通り」

「さすが田村さん」


その声は合唱というより、狂気的な機械音の反復だった。


田村の掠れたうめき声は、称賛のノイズにかき消される。


肺が悲鳴を上げ、視界の端から暗闇が滲んでくる。


脳に血が回らず、意識が遠のく。

指先が痙攣し、膝が床に崩れ落ちた。


助けを求める目を必死に同僚たちへ向ける。

だが誰も立ち上がらない。

誰も駆け寄らない。

仮面のような笑顔が並び、拍手は規則正しく響き続ける。


「さすがだ」

「その通り」

「素晴らしい」


その合唱が、田村の最後の呼吸音を完全に塗り潰した。


視界は真っ暗になり、最後に残ったのは耳の奥に焼き付く拍手のリズムだった。




会議室の窓辺に、ノアが立っていた。

黒いマスクの奥で、口元をわずかに歪める。


「本当は、実力だけで十分だった。欲を出して支配を望んだせいで、声は空虚に響くだけになったんだ」


無人の会議室にはなお、規則的な拍手が鳴り響いていた。


倒れた田村の身体を、誰もいないはずの観衆が讃え続けるかのように。

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