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炎上厨房

世界のどこかで、ふと出会うことがある。

その名はノア。人にも、妖精にも見える存在。

ノアはただ、あなたにひとつの道具を差し出すだけ。

それをどう使うかは、あなた次第。

行き着く先を、ノアは静かに見届けている。


***


田島光子、五十二歳。

かつては「家庭でできる簡単お弁当レシピ」でベストセラーを飛ばした料理研究家。

母親向け雑誌に連載を持ち、テレビ出演もこなし、一時は「国民的お母さん」とも呼ばれた。


だがそれはもう十年以上も前のこと。

いまはレギュラー番組もなく、SNSのフォロワーは減り、出版社からの声もかからない。

「過去の人」――その一言が、光子の肩に重くのしかかっていた。


それでも料理への情熱は尽きていない。

毎日、試作ノートを開いては新しいレシピを考える。

だが「映える料理」ばかりがもてはやされる時代、地味な家庭料理では注目されない。

「どうして、誰も見てくれないのよ……」

孤独なキッチンで、光子は鍋をかき混ぜながらつぶやいた。


そんなある昼下がり。

近所の公園のベンチに腰を下ろしていた光子は、不思議な青年と出会った。


白いシャツに黒のスラックスという簡素な装いなのに、不思議なほど気品が漂う。

整った顔立ちは彫刻のようで、長い指先は風に舞う落ち葉をすくうように優美に動く……ノアだ。


彼は掌に小瓶を掲げ、中で揺れる透明な液体を振ってみせた。

「それは“創造のエッセンス”。一滴で発想が泉のように湧く。物語や詩、そうだな……料理とか、何でもだよ」


光子は息をのんだ。

差し出された瓶を握ると、心臓が熱く跳ねた。

「これがあれば、また……」


翌日。光子はテレビの料理番組にゲスト出演した。

本来なら控えめに進行に従うだけの枠だった。


だが、光子は冒頭から突っ走った。


「さあさあ! 今日は豚肉を丸ごといっちゃいますよ~!」


奇声とともに、巨大な豚肉をカメラに突き出す。


共演者は凍りついたが、観客は爆笑。


SNSは瞬時に炎上……いや、拡散した。

「帰ってきた伝説の料理研究家!」


番組後、フォロワーは爆発的に増えた。

光子は震える指でスマホを見つめ、笑みを噛みしめた。


「……これよ。これでいいのよ!」


それからが加速だった。


「今日はね、ラムネとサーモン! 爽やかな炭酸が魚の生臭さを吹き飛ばすのよ~!」


バシャーン!とボウルにラムネを注ぎ込み、サーモンをぶち込む。

観客は顔をしかめつつも笑いが止まらない。


「味噌とスイカのマリアージュ!」

スイカに電動ドリルであなをこじ開けて、赤味噌をねじ込み、スタジオ中をどよめかせる。

「和とフルーツの融合! 新感覚スイーツ!」と絶叫し、スタジオは半分悲鳴・半分爆笑のカオスに。


奇抜さは止まらず、光子はもはや料理研究家を超え、「狂気のエンターテイナー」へと変貌していった。


だが、エッセンスを舐めるたびに、言動はさらに過激さを増す。


スポンサーは逃げ、同業者は距離を置いた。


「料理じゃない。見世物だ」


そう言われても、光子は聞かなかった。


SNSの拍手喝采、バズの快感。

その熱狂こそが、彼女にとって唯一の生き甲斐になっていた。


田島光子は再び「時の人」になった。


かつての「お弁当研究家」の肩書は忘れ去られ、代わりに彼女に与えられたのは……


「狂気の料理人」

「台所のデストロイヤー」


SNSには無数の切り抜き動画が流れ、笑いと恐怖が混じったコメントで溢れていた。


光子はその渦の真ん中で、目を輝かせていた。


「さぁ! 今日はね~! 冷蔵庫をまるごと料理しちゃいますよぉぉぉ!!!」


スタジオに響き渡る絶叫。


光子は大型冷蔵庫をスタッフに運ばせ、ドアをバーンと開ける。

牛乳パックも、納豆も、古びた漬物も、そのまま寸胴鍋に放り込む。


「全部入れれば、栄養満点!家庭の知恵よ!」


観客は笑いながらも顔をしかめ、共演者は悲鳴混じりに「やめて!」と叫ぶ。


だが光子は止まらない。

エッセンスを指先で舐め、恍惚の表情を浮かべると……

「次は、観客のお弁当を借りま~す!」


前列の観客から弁当箱を奪い取り、バラバラにして鍋へ投入した。


「愛情弁当も、全部まとめて煮込めば平和料理! 世界平和!」


もはや料理でも理屈でもない。

叫びは妄想に近かった。


SNSは連日トレンド入り。

「料理の狂気がアートに到達した」

「もはや宗教的カリスマ」

熱狂的なファンが現れ、彼女を“師匠”と呼び始めた。


光子は拍手と歓声を浴びながら、鏡に映る自分を見た。

頬は紅潮し、目はぎらつき、十年前より若々しく見える。

「これが……私よ。かつての弁当作りママじゃない。世界を震わせる料理人なのよ!」


エッセンスを飲む指は震え、喉は乾いていた。

もっと欲しい、もっと奇抜な料理を――。


ある日、光子はついに“聖なる舞台”を手に入れた。


世界配信される国際料理フェス。

審査員席にはミシュランのシェフ、各国のグルメ評論家が並ぶ。

光子は巨大なステージに立ち、観客三千人の視線を浴びた。


「見ててください! 料理とは、創造の爆発です!!!」


光子は叫び、牛の丸焼きを抱えて登場。

観客がどよめく中、そこへソーダを豪快にかけ、さらにケーキを突っ込む。

ジュワァァ! と泡立つ異音とともに、会場は混乱と爆笑に包まれた。


「牛もケーキも、国境を越えれば一つ! ワールドフード!!!」

光子は絶叫しながら泡まみれの料理を掲げた。


会場の熱狂は頂点に達した。

審査員は顔を青ざめさせたが、観客の喝采は止まらない。

その夜、光子のフォロワーは一千万人を突破した。


だが。


帰宅後のキッチンで、光子は一人、エッセンスの瓶を見つめていた。

もう底が見えかけている。

「もっと……もっと見せなきゃ。拍手がなきゃ、私は……」


鏡に映る自分の顔は、たしかに若々しく輝いていた。

だがその目の奥には、かすかに黒い影が宿っていた。


翌日、テレビ局の控室。

光子は落ち着きなくエッセンスの瓶を振っていた。

ほとんど空っぽ。残り数滴を口に含むと、喉の奥で甘苦い液体がはじけ、脳に火花が散る。


「まだ足りない……もっと奇跡を……」


本番が始まった。

光子は厨房に設置されたカメラに向かって叫ぶ。


「今日は――“未来の食卓”を見せます!!」


彼女の前に並んでいたのは、ラムネ、サーモン、味噌、スイカ、チョコレートソース。

観客が戸惑う中、光子は全部を鉄板にぶちまけた。


ジュワァァァァッ!!!


甘ったるい匂いと焦げた臭気が入り混じり、会場に充満する。


「未来はこうやって混ざり合うのよ!」


さらに豚の丸焼きを持ち上げ、ステージ中央にドスンと置く。


その腹にメロンやアイスクリームを詰め込み、ソーダを注ぐ。

泡と脂と甘臭さが爆ぜ、客席から悲鳴が上がった。


「これが――世界平和の料理よォォォ!!!」


観客の喝采と悲鳴が入り混じる。

だが、審査員のひとりが突然胸を押さえて倒れた。

激しい匂いに当てられたのだ。

ざわめきは一瞬で混乱に変わり、スタッフが駆け寄る。


光子は立ち尽くした。

その耳に、観客の声が刺さる。


「やりすぎだ……」

「狂ってる……」

「食べ物を冒涜してる……」


SNSには「#料理テロリスト光子」というタグが生まれ、瞬く間に拡散した。


たった一夜で、称賛は嘲笑へ。


光子の心は、ステージの熱狂ごと冷え込んでいった。


深夜のキッチン。

光子の手は止まらなかった。一人で鍋をかき回し、包丁を振るいながら、狂ったように呟き続ける。


「ラムネのサーモン? 甘い! チョコの豚肉? 凡庸! スイカと味噌? 退屈すぎる! もっと……もっと逆転を……!」


散乱する食材の残骸。異様な匂い。

しかし、ひときわ鋭いひらめきが光子の脳裏を貫いた。


「そうよ……逆転の発想の先にあるのは、普通……!」


手が勝手に動く。包丁が踊り、油が弾ける。

そして――完成したのは。


艶やかな白米の上に、こんがりと揚がった唐揚げ。

衣はザクッと音を立てそうなほど香ばしく、中から溢れる肉汁は黄金色の滴となってご飯に染み込み、匂いだけで胃袋を鷲掴みにする。


脇には、ふんわりと巻かれた卵焼き。

箸を入れるとぷるんと弾む。

甘い砂糖醤油が卵の優しい味わいと絡み合い、噛むたびにじゅわりと幸福感が広がる。


アスパラベーコン巻きは、

瑞々しい緑と塩気のきいたベーコンが互いを引き立て、噛んだ瞬間に肉の旨みと野菜の爽やかさが同時に弾ける。


隅には艶やかなきんぴらごぼう。

薄茶色に煮絡められたごぼうと人参は、香ばしい胡麻の風味をまとい、シャキシャキと歯ざわりよく、懐かしさと滋味をもたらす。


そして、柔らかく練り上げられたポテトサラダ。

ほっくりとしたじゃがいもに、きゅうりとハムの歯ざわりが加わり、優しい酸味が全体を包み込む。口に含めば、思わず笑みがこぼれそうな安心感が広がる。


弁当箱の中は、まるで宝石箱。


色彩、香り、質感――すべてが調和し、見ているだけで唾液があふれる。


光子は、弁当箱を両手で持ち上げ、震える声で笑った。

「ふふふふ……ふふふふふふ……! これよ、これが最高の逆転発想! 普通こそ、究極の料理……!」


ふと、かつての優しい母の表情に戻ったかのように見えた。


だが次の瞬間、彼女の目は狂気に濡れた。


「――いいえ! まだ、もっとすごい発想がある!」


冷凍庫から大きなアイスクリームのバケツを抱え出し、大鍋に流し込む。

白い甘ったるい液体が溶け出し、部屋に不気味な香りを漂わせる。


その中へ、今しがた完成した“完璧なお弁当”を、どぼん、と音を立てて沈めた。


「ふはははははッ! 唐揚げとバニラ! 卵焼きとラムレーズン! ポテサラとチョコミント! これぞ未来の料理よッ!」


光子の哄笑が、深夜の台所に響き渡った。



扉の外から見ていたノアは、長いため息をついた。

「結局、人は普通の中に真実を見いだす……けれど、一度狂気を知ってしまえば、普通さえも壊さずにはいられない」


ノアの声は夜に溶け、光子の笑い声と、アイスに沈んでいく弁当の匂いだけが残った。

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