インスタント・ハピネス
世界の片隅で、ふと出会うことがある。
その名はノア。誰かにとっては友人であり、誰かにとっては幻影である。
ノアはひとつの道具を渡す。
選ぶのは、あなた。
行き着く先を、ノアはただ見守っている。
***
松本貴美子、三十七歳。
郊外のマンションで夫と中学生の息子と暮らしている。
専業主婦。朝は弁当づくりと洗濯、昼は買い物と掃除。
忙しくも単調な毎日だ。
けれど、心を圧迫するのは家事ではない。
スマホを開けば、世界はきらびやかに光っている。
「今日のランチ♡ フレンチのフルコース!」 「子ども、県大会優勝しました! 応援ありがとう!」
ママ友たちのタイムラインは幸福であふれ、
同級生のアカウントには「海外旅行」「ブランドバッグ」が並ぶ。
スクロールする指先が、胸を締めつける。
(どうして……私の人生は、こんなに地味なの?)
ふと鏡を見れば、化粧は崩れ、目元の皺が濃くなっている。
夫は相変わらずスマホばかりで会話もない。
息子も反抗期で、口を開けば「うるさい」の一言。
「私だって、少しは“幸せそう”に見られたい」
そんな思いが芽生えるのに、時間はかからなかった。
ある日、買い物帰りの公園で、白いシャツの青年が猫と遊んでいた。
猫じゃらし代わりに指先の指輪をひらめかせ、光を反射させる。
猫は夢中になり、その青年に甘えていた。
彫刻のように整った顔、森の湖を思わせる透明な瞳。
彼の存在は、日常に突如差し込む異物のように鮮やかだった。
「君は、見せたい自分と、見られている自分の差に苦しんでいるね」
青年――ノアは、そう言って彼女に微笑んだ。
そして、指輪を差し出した。
「これは“シャッターリング”。
撮ったものを、君が望む形に変えてくれる。
見せたい自分を、思うままに映せるんだ」
半信半疑で受け取った瞬間、指輪はすっと彼女の指に馴染んだ。
金属の冷たさよりも、なぜか心臓の鼓動を落ち着ける温もりがあった。
試しにスマホを構え、スーパーの袋を撮影した。
シャッターを押した瞬間、画面にはブランドショップの紙袋が映っていた。
「……嘘、でしょ」
次に、自宅の質素な食卓を撮った。
すると、テーブルには彩り鮮やかな料理、ワイングラスが並んでいる。
投稿すると、すぐに反応が返ってきた。
「すごい!」「羨ましい!」「どこで食べたの?」
通知が鳴るたび、胸の奥がじんわりと満たされていった。
それからは止まらなかった。
近所の公園が「海外リゾート」に、
古びた団地の廊下が「高級ホテルのエントランス」に。
「貴美子さんって、本当に充実してるのね」
ママ友から直接声をかけられたとき、貴美子は震えるほど嬉しかった。
だが、現実はどんどん乖離していく。
夫はますます無口になり、息子は目を合わせなくなった。
それでも彼女は、スマホの中の“幸せな自分”に酔いしれた。
ある日、SNSで知り合ったフォロワーからメッセージが届いた。
「いつも見てます! 一度、お会いしたいです」
胸が高鳴る。だが同時に、不安も渦巻く。
(私の現実を見られたら……どうなるの?)
待ち合わせ場所に向かうと、そこにいたのは――もうひとりの“松本貴美子”。
画面の中で作り上げられた、完璧に着飾った理想の彼女。
取り巻きに囲まれ、笑顔で写真に収まっている。
一方の“現実の貴美子”は、疲れた顔で立ち尽くすばかり。
誰も彼女に気づかない。
ノアが背後に立ち、静かに告げる。
「人は時に、“見られる幸せ”を選んでしまう。
けれど、それは本当の幸せを食い尽くす――ただの虚像だ」
貴美子の目から涙がこぼれ落ちる。
けれど、スマホの画面の中では、笑顔の彼女が「幸せ」を更新し続けていた。
残されたのは、現実の彼女のすすり泣きと、画面の向こうの“完璧な彼女”だけだった。




