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猫鈴

世界のどこかで、ふと出会うことがある。

その名はノア。人にも、妖精にも見える存在。

ノアはただ、あなたにひとつの道具を差し出すだけ。

それをどう使うかは、あなた次第。

行き着く先を、ノアは静かに見届けている。


***



昼下がりの公園。

柔らかな陽光が木々の間から降り注ぎ、芝生の上では数匹の野良猫が気ままに体を伸ばしていた。


その輪の真ん中に、ひとりの青年が腰掛けていた。

白いシャツに黒いパンツ。姿はどこにでもいそうなのに、光の中に浮かぶその輪郭は不思議な透明感を帯びている。

青年は猫たちに囲まれながら、小さな銀色の鈴を手にしていた。


「ほら、こっちだよ」


シャラ、シャラ……。

澄んだ音色が空気を震わせる。

まるで鈴そのものが呼吸しているように、猫たちの耳をくすぐり、瞳を輝かせた。


一匹の黒猫が、勢いよく飛びかかる。

次の瞬間にはその小さな口に鈴をくわえ、青年の手から奪い取っていた。

青年は追いもせず、微笑みを浮かべる。


「……いいんだ。持って行きなさい」


その声は風に紛れ、陽炎のように淡く消えていく。

猫は芝生を駆け抜け、公園の端にあるベンチの下へ潜り込んだ。

そこに座っていたのは、由美子という女性だった。



由美子は五十代半ば。

昔から猫が大好きで、家には十匹近い猫を飼っている。

友人からは「ちょっと異常よ」と笑われるが、彼女にとって猫は家族であり、生きる理由だった。

スーパーで猫用おやつを買うのが一日の楽しみ。


夜はソファに腰を下ろし、猫を膝にのせて「お前は世界一だよ」と囁く。

それはほとんど呪文のようで、猫たちはうっとりと目を細めて応えるのだった。


だが、その愛情はどこか常軌を逸していた。

自分の食費を削ってでも猫缶を買い込む。

旅行も友人との集まりも断り、猫の世話を優先する。


鏡に映る疲れた顔を見ても、心のどこかで「私が猫になれれば、こんな人間の苦労はしなくて済むのに」と夢想していた。



そんな由美子の足元に、突然、黒猫が駆け寄ってきた。

そして口からぽとりと銀の鈴を落とす。


「まあ……なあに、これ?」


拾い上げると、鈴はまだほんのり温かかった。

シャラリ、と鳴らすと、不思議な余韻が胸の奥に染み込んでくる。

その瞬間、耳元でかすかな声がした。


「鳴らして、鳴らして……」


驚いて振り向くと、猫がベンチの下から顔を出していた。

まるで口が動いたように見えた。

由美子は思わず笑ってしまう。


「ふふ、私、とうとう幻聴まで聞くようになったのかしら」


しかし、その夜。

自宅で鈴を振ると、膝の上の猫がはっきりとこう言ったのだ。


「おかえり、ユミコ」


由美子は息を呑んだ。

猫と、本当に、言葉を交わせるようになってしまったのだ。


鈴を手にしてからの日々、由美子の生活は一変した。

猫たちが言葉を話すようになったのだ。


「お腹すいた」

「もっと撫でて」

「外に出たいよ」


リビングは、いつしか子どもの合唱のように賑やかな声で満ちた。

由美子は頬を緩め、猫たちに返事をする。

「はいはい、ご飯にしましょうね」

「今日は寒いから、出ちゃだめよ」


最初は夢のようだった。

猫と心がつながる……それは、彼女がずっと願っていたことだったから。


だが、その会話が日ごとに深くなるにつれ、奇妙な変化が現れ始めた。



ある晩、風呂上がりにタオルで髪を拭いていたときのことだ。

耳の奥で「ザザッ」と音がした。

気のせいかと思った瞬間、こめかみの下あたりが痒くなる。

爪で軽くかいた指先に、細い毛が数本、抜けて絡みついていた。


「え……私、こんな毛生えてた?」


黒く艶のあるそれは、人の髪ではない。

猫の毛とそっくりだった。


翌朝、リビングに座ると、猫たちが一斉にこちらを見つめた。

「ユミコ、いい匂いする」

「仲間の匂い」


ざわり、と背筋に寒気が走った。



日が経つにつれ、変化は加速した。


夜、スーパーの袋を下げて帰宅すると、階段を上がる足取りが妙に軽い。

「タタタッ」と床を蹴る音が、以前よりも高く、速い。

気づけば四つん這いになって玄関を這い上がっていた。


「……っ、なにしてるの、私」


慌てて立ち上がるが、爪先が床を引っかき「キィィ」と不快な音を立てた。

見ると、自分の爪が伸びていた。

透明な板が分厚く盛り上がり、先端が鉤のように湾曲している。


ミシ、ミシ、と皮膚を押し広げて成長する感覚に吐き気がこみ上げた。


「いや……これ、爪切りで切れるよね……?」


だが、刃を当てると「ギチッ」と金属が弾かれた。

爪はすでに人間の硬さを超えていた。



さらに、夜更け。

寝室で横になっていた由美子は、耳元に奇妙なざわめきを感じて目を覚ました。

頭皮の下で「ズズズ……ッ」と何かがうごめいている。

触れると、耳の付け根が熱を帯び、皮膚が盛り上がっていた。


「や、やだ……!」


指先で押さえた瞬間、皮膚が裂け、「ピシリ」と音を立てて尖ったものが突き出した。

鏡をのぞくと、丸くて柔らかな三角形の影……猫の耳だった。


息が詰まる。

額から汗がだらだらと垂れ、鏡の前で必死に笑おうとする。


「冗談でしょ……これ、特殊メイクか何かよね……」


だが、耳は確かに震え、外の虫の羽音までも拾っている。

敏感すぎる聴覚に、頭が割れるような痛みが走った。



翌朝。

台所で包丁を握ろうとしたが、爪が邪魔をしてうまく持てない。

「カランッ」と落ちた刃物が床を転がる。


背後から猫の声がした。

「ユミコ、もう無理しなくていいよ」

「人間のままじゃ、つらいでしょ」


由美子は震える唇で答えた。

「……そうかもしれない」


言葉が口を突いて出ると同時に、背骨が「ミシィッ」と音を立てた。


腰が曲がり、肩甲骨の辺りがせり上がる。

皮膚の下で骨がずれ、筋肉が蠢くたびに、ぞわぞわと毛が押し出されて生える。


「やめ……やめて……!」


止めようと爪を立てたが、爪は自分自身の肉を容易に裂き、血と毛が入り混じって滲んだ。

猫たちの声が重なり合い、耳の奥で木霊する。


「一緒に遊ぼう」

「もう、人間の世界は要らない」


由美子の喉から、言葉ではなく「ニャア」と声が漏れた。

その瞬間、涙が溢れた。


「私……本当に……」


人間ではなくなりつつある……。


日を追うごとに、由美子の変化はもう隠せなくなっていった。

買い物に出かけても、通行人が振り返る。

フードを深くかぶっても、耳がピクリと反応してはみ出す。


「え? 今の……猫の耳?」


ざわめきが聞こえるたび、由美子は駆け足で帰宅した。


家に戻ると、猫たちが駆け寄る。

「おかえり、ユミコ」

「ねえ、もう外には出ないで。ここで一緒にいよう」


由美子は崩れ落ちるように床に座り込んだ。

爪は完全に鉤爪になり、スリッパを引き裂いてしまう。

背中の骨は猫のようにしなり、歩くときも無意識に四つん這いになる。


「私……もう戻れないの?」


その声はすでに濁り、「ニャ……」と混じった。

由美子は震える指で、首元の鈴を握りしめる。

あの日、公園でノアが猫と戯れながら鳴らしていた小さな鈴。


シャララ……と鳴るたびに猫たちが喜び、その後、なぜか自分のもとに転がり込んできた。

それが全ての始まりだった。



変化は、夜に頂点を迎えた。


寝床で目を閉じても、体は眠らない。

耳は壁の向こうの虫の羽音を拾い、鼻は隣家の夕食の残り香を嗅ぎ分ける。


舌の奥からは「ゴロゴロ……」と低い音が漏れ、止まらない。


そして――脚の骨が「パキッ」と砕け、逆向きに曲がった。


激痛に悲鳴を上げるも、それはもう「ニャアアア!」という叫びだった。


皮膚が裂け、毛が滲み出るように生えてくる。

手の指は縮み、肉球のように膨らんで柔らかくなる。

指先の間からは汗ではなく、ピンク色の液がじゅるりと滲み、血と毛が混ざり合った。


「や……だ……」

声を出そうとしても、喉から漏れるのは「シャアア……」という威嚇音。


鏡の前に立つ。

そこにいたのは、半分人間、半分獣。


顔の骨格が崩れ、鼻は潰れて短くなり、目は黄色く光り、縦に裂けた瞳孔が揺れていた。

口の中では歯が抜け落ち、「ガリッ、ガリッ」と音を立てて牙が生えてくる。


鏡に向かって爪を振り下ろすと、ガラスは粉々に砕け散った。



朝。

近所の人が不審に思い、由美子の家を訪ねた。

カーテンの隙間から覗いた室内には、荒れ果てた部屋と、無数の毛が舞っているのが見えた。

そして……。


窓辺にちょこんと座る、一匹の猫。


首元には小さな銀色の鈴。

その鈴が、シャララ……と軽やかに鳴った。


猫は大きな瞳で外を見つめ、ゆっくりと瞬きをした。

その目は、人間の理性の名残を宿したまま、しかし完全に「猫」だった。



夕刻、公園のベンチにノアが腰掛けていた。

指先で同じ形の鈴を弄びながら、どこか遠くを見る。

彼の周りでは、数匹の猫がじゃれ合い、楽しげに駆け回っている。


ノアは小さく呟いた。


「……君が本当に欲しかったのは、愛情でも癒やしでもない。

“完全に猫になってしまうこと”だったのかもしれないね」


風が吹き、シャララ……と鈴が鳴った。

その音に導かれるように、公園の茂みからまた一匹の猫が現れ、ノアの足元に擦り寄った。


ノアは微笑んだ。

だが、その瞳の奥には、深い影が揺れていた。

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