間の時計
世界のどこかで、ふと出会うことがある。
その名はノア。人にも、妖精にも見える存在。
ノアはただ、あなたにひとつの道具を差し出すだけ。
それをどう使うかは、あなた次第。
行き着く先を、ノアは静かに見届けている。
***
佐藤正男、五十二歳。
職場でも家でも「間が悪い」で通ってきた、どこにでもいるようなおじさんだ。
彼の日常は、とにかくすれ違いと小さな不運であふれていた。
休日のスーパー。
長蛇の列に並びながら、ふと隣のレーンを見ると、ガラ空きだ。
「よし、こっちに移ろう」
と移動した瞬間、レジ担当が「すみません、休憩入ります」と札を立てて奥へ引っ込む。
戻ろうとしたが、元の列はすでに倍以上に膨れ上がっていた。
「……なんで俺が動いた時だけ」
カゴを持つ手が、ずっしり重く感じられた。
在宅勤務の日。午前指定の荷物を待ちながら、トイレに立ったのはわずか三分。
戻るとポストに赤い紙がひらひらしていた。
《ご不在のため持ち帰りました》
時計を見ると、指定時間の二分前。
「いやいやいや、ちょっと待ってよ……」
荷物を受け取るために午後も家にこもる羽目になった。
仕事の帰宅中。
帰宅ラッシュで電車に飛び乗った瞬間、背後のドアが閉まった。
「ふぅ、間に合った」
安堵した次の駅で、正男が立っているドアだけが開かなかった。
慌てて反対側へ回り込む頃には、乗客の波に押されて降りられない。
「いや、なんでこのドアだけ……」
小さく首をすくめるしかなかった。
そんな細かい出来事の積み重ねが、彼の人生をじわじわ削っていた。
「どうせ俺なんか、間の悪い人間なんだ」
そう呟いて帰路につく背中は、疲れと諦めに丸まっていた。
その夜、正男は残業帰りに公園のベンチに腰を下ろしていた。
街灯の下で自販機の缶コーヒーをすすりながら、今日も小さな間の悪さを数え上げてはため息をつく。
「俺って、なんでこう……ツイてないんだろうな」
独り言に応えるように、視界の端で人影が揺れた。
白いシャツに黒のパンツ。装いはシンプルだが、どこか舞台俳優のような品と気配をまとった青年だった。
風が止まり、街のざわめきが遠のく。
「君は、“間”に縛られている」
青年は柔らかく微笑んだ。ノア、と名乗った。
そして懐から取り出したのは、小さな懐中時計。
銀色の蓋に、複雑な刻印が施されている。
「これは“間の時計”。針が一秒だけ遅れたり進んだりする。
それだけで、世界の巡りが少しずつ変わる。
君はもう、列に置いていかれたり、ドアに拒まれたりしない」
正男は半信半疑で受け取った。
掌にずしりとした重みが宿り、胸の奥で微かに期待が芽生える。
翌日、奇妙なことが起きた。
いつもなら出勤途中で赤信号に引っかかるはずの交差点。
その日は青が続き、正男は一度も止まらずに会社まで辿り着いた。
「お、今日はついてるな」
昼休み、コンビニに並んだ時も、正男の前でレジが増えた。
「こちらにどうぞ!」
差し出された先頭に立ち、会計は一瞬で終わる。
「俺にも、やっと順番が回ってきたんだな」
正男は心が軽くなるのを感じた。
だが、その帰り道、赤信号に突っ込んだトラックが別の歩行者をはねる場面を目撃した。
通勤経路を変えていた自分は助かった。
代わりに、誰かが犠牲になった。
(……偶然だよな)
胸のざわつきを押し殺しながら、時計をポケットにしまい込んだ。
奇妙な出来事は続いた。
スーパーのレジ。
「休憩に入ります」と告げられる直前に、自分の番だけ滑り込める。
だが、後ろに並んでいた青年が露骨に舌打ちし、別のレーンに移った途端、青年は財布を落として慌てていた。
宅配便。
いつもなら不在票が入るのに、今日はきっちり荷物を受け取れた。
だが、隣の部屋の住人が「大事な荷物を盗まれた!」と管理人に泣きついていた。
電車。
正男の立っているドアだけ、ちゃんと開いた。
降りようとした瞬間、隣のドアに押し寄せた人波が将棋倒しになり、誰かが悲鳴を上げていた。
「なんだよ……これ……」
胸の奥に、奇妙な冷気が広がった。
自分の間の悪さが消えた代わりに、その“ズレ”が周囲の人へ転化しているのではないか――。
ノアの言葉が頭をよぎる。
“針が一秒だけ遅れたり進んだりする。それだけで、世界の巡りが変わる”
変わった世界で得をしているのは自分。
だがその影で、不幸をかぶっているのは……他人。
正男はポケットの時計を取り出した。
針は静かに回り続けている。
秒針がひとつ動くたびに、遠くで誰かのため息が聞こえるような気がした。
「これが……俺の幸運の代償ってやつなのか」
正男は呟いた。
笑おうとしたが、唇は震えて、声にならなかった。
正男は、あの日以来ずっと時計を持ち歩いていた。
小さな懐中時計。秒針がひとつ進むたび、胸の奥でざわりと不安が広がる。
それでも手放せない。手放せば、また自分が“間の悪い人生”に逆戻りするのではないかという恐怖があった。
ある夜のことだった。
正男は残業帰りに、街灯の下でふと足を止めた。
近くで、若い女の子がスマホを握りしめている。
「まだ帰りたくないなぁ……」とつぶやくその姿に、正男は見覚えがあった。
近所に住む女子大生。いつも笑顔で挨拶してくれる子だった。
そのときだった。
ビルの陰から、サングラスをかけた男が現れた。挙動は不自然に早く、背中を丸めて女の子に近づいていく。
その瞬間、甲高い悲鳴が夜を裂いた。
「やめてっ! 誰か……!」
正男は振り返った。
女の子は必死に抵抗し、男は刃物のようなものを握っている。
正男の胸がドクンと跳ねる。
(やばい……でも、助けなきゃ……!)
足は勝手に動いた。
しかし走り出した直後、間の悪いことにアスファルトのひびに足を取られ、盛大に転んだ。
「いってぇ!」と叫びながら起き上がると、ちょうどストーカーの男が凶器を落とし、暗闇に逃げ去る瞬間だった。
「ま、待て!」正男は追いかけようとしたが、転倒の衝撃でうまく走れない。
代わりに、手をついた拍子に地面の凶器を掴んでしまった。
ぬるりとした感触が指先を這う。見れば、刃には赤黒い液体がついていた。
「ちがっ……これは俺じゃ……!」
慌てて凶器を放り出そうとしたが、そのとき。
女性に駆け寄り、「大丈夫ですか!?」と肩に触れた瞬間――。
「いやあああああっ!!」
振り返った女性はパニックで、正男を加害者と錯覚して悲鳴をあげた。
ちょうどその場に駆けつけた通行人二人が、信じられないものを見たという顔をする。
防犯カメラも、犯人が逃げた瞬間は死角。
映っているのは「凶器を握った正男」と「泣き叫ぶ女性」だけだった。
「この人が! この人が襲ったの!」
女性は取り乱しながら叫んだ。
「ま、待ってくれ! 俺じゃないんだ! 俺は助けようと――」
正男は必死に弁明するが、目撃者の視線は冷たい。
彼の指にはまだ血がついている。
誰がどう見ても「犯人」にしか見えなかった。
数分後、駆けつけた警察官たちに取り押さえられ、手錠をかけられた。
正男はなおも叫んだ。
「俺じゃない! 本当だ、信じてくれ! 間が悪かっただけなんだ!」
だが、その声は夜の闇に吸い込まれ、誰の耳にも届かない。
パトカーの赤色灯が遠ざかった後、人気の消えた路地にノアが静かに姿を現した。
彼の手には、例の時計が握られている。
秒針は、ちょうどその瞬間にぴたりと止まっていた。
「間を押し付け続けてきた君は、最後に自分の間に呑み込まれたんだ」
ノアは淡く笑った。
「世の中は公平だ。運が悪いという言葉の裏には、いつだって“因果”が潜んでいる。
君が他人に転嫁してきた不運は、形を変えて君自身に戻ってきただけさ」
ノアは時計を胸ポケットにしまい、街灯の光に背を向けた。
その背中は、救いもなく、ただ事実を受け入れるだけの冷ややかさを帯びていた。
残されたのは、路地に響く女性のすすり泣きと、誰も信じなかった正男の声の残響だけだった。




