信頼の鍵
世界のどこかで、ふと出会うことがある。
その名はノア。人にも、妖精にも見える存在。
ノアはただ、あなたにひとつの道具を差し出すだけ。
それをどう使うかは、あなた次第。
行き着く先を、ノアは静かに見届けている。
***
宮野さくら、二十三歳。
地方から出てきて二年目の事務職。狭いワンルームで暮らしながら、同い年の恋人・航と未来を夢見ていた。
航は留学を志していた。でも学費の目処は立たない。
「夢をあきらめたくないんだ」
そう語る彼の顔を見て、さくらは何も言えなかった。
私にできること、何かないの?
夜、ベッドの上でスマホをいじっていたときだった。
広告みたいなテキストがふいに目に飛び込んできた。
『誰でもできる簡単なバイト。報酬は即日、現金手渡し』
さくらは、心臓を掴まれるように固まった。
いやいや、怪しいってわかってる。わかってるけど……。
それでも、指は勝手に動いて「応募」ボタンを押していた。
集合場所は人通りの少ない駅前。
そこに現れたのは、えらく爽やかな笑顔の男だった。名前は巧。
「カンタンだよ。お金を預かって渡すだけ。君は“受け取り役”。ほら、全然悪いことなんてしてないだろ?」
……本当? でも、説明を聞くと、まるで正規の仕事みたいに思えてしまう。
そして最初の報酬。財布に入った現金の感触に、さくらの手は震えた。
帰宅して航の寝顔を見つめながら、心がじんわり熱くなる。
これで夢を支えてあげられる。
最初は、ほんの少しの背徳感。
でも二度、三度と繰り返すうちに、その感覚は薄れていった。
気づけば「受け子」という自覚さえ、どこかに置き忘れていた。
ある夜、川沿いを歩いていると、公園のベンチに人影があった。
シンプルな服装なのに、妙に上品。
まるで光をまとった彫像みたいに整った顔立ち。
「君は……信じてもらいたくて、嘘をついているね」
さくらは足を止めた。声をかけてきた青年、ノア。
彼は銀色に光る、小さな鍵を差し出した。
「これは“信頼の鍵”。君が話すとき、相手は疑わなくなる」
さくらは息をのんだ。冷たい金属の感触なのに、不思議と胸が温まる。
気づけば、その鍵を握りしめていた。
それから世界は変わった。
銀行員も、配達員も、警備員も。誰もが彼女の言葉を疑わない。
「預かり物なんです」
そう言うだけで、封筒や札束がすっと鞄に収まる。
報酬は跳ね上がり、航も夢を諦めずに済んだ。
しかし、その裏で誰かが泣いていた。
ニュースの隅に流れる被害者たち。
「老夫婦が全財産を失う」
「シングルマザーが進学資金を騙し取られる」
さくらはニュースを見て震えた。
「私のせいじゃない……私はただ、受け取っただけ……」
でも夜、鞄の中の“鍵”がじんわり熱を持つと、体が勝手に動いてしまう。
次の依頼を断れない。
鍵が、さくらの心そのものを削っていくみたいだった。
やがて、人と話しても相手の顔が霞んで見えるようになった。
会話は一方通行で、感情の手応えは消えていく。
「美咲、最近変だよ」
航が心配そうに言った。けど、さくらは目をそらした。
「私……なんのためにやってるんだっけ?」
札束の重みはあるのに、心が空っぽだ。
鍵は、“信じたい心”そのものを切り落としていた。
ある日、受け取り先に現れたのは、腰の曲がった老婆だった。
「お願いします、これで最後なんです」
震える手で封筒を差し出す。
その手を受け取った瞬間、老婆は崩れ落ちた。
「……孫の……入学金が……」
その言葉が、耳から離れなかった。
その夜。さくらは公園で鍵を地面に叩きつけた。
でも、砕けるどころか、冷たい光を返すだけ。
「どうして……止まらないの」
涙で滲む視界の前に、ノアが現れた。
彼は深い影をまとった顔で、静かに告げた。
「僕が渡した鍵は、そんな力を持つはずじゃない。……でも、君が“まだ足りない”と願い続けたから、歯止めが効かなくなった」
さくらは崩れ落ちた。自分の欲が鍵を暴走させた?
もう、どうすればいいのかわからなかった。
数週間後。
さくらは自ら警察に出頭した。
罪を償うしか出口はないと考えたから。
航は去った。会社も辞めざるを得なかった。
けれどニュースサイトは皮肉な見出しを並べる。
『“受け子美女”涙の自首。SNSで応援の声』
『信じてしまう声の持ち主、今後は講演依頼殺到か?』
……結局、まだ誰かを騙している。牢の中にいるはずの自分の声が。
「なんで……終わらないの……」
鉄格子の外。ノアが静かに彼女を見つめていた。
掌の中で、銀の鍵が淡く光り、やがて溶けるように消えていく。
「人はね、時に真実よりも“信じたい言葉”を選んでしまう。それが詐欺でも、甘い未来でも」
ノアの声は風に溶け、牢の中にすすり泣きだけが残った。
遠く、街の雑踏にまぎれて「信じてしまった」人々のざわめきが、いつまでも響いていた。




