緑の同居人
世界のどこかで、ふと出会うことがある。
その名はノア。人にも、妖精にも見える存在。
ノアはただ、あなたにひとつの道具を差し出すだけ。
それをどう使うかは、あなた次第。
行き着く先を、ノアは静かに見届けている。
――かつて、とある男と観葉植物の物語を語ったことを覚えているだろうか。
緑が人の形をとり、部屋を抜け出して夜道を歩いていったあの光景を。
あれは一つの結末であり、また別の始まりでもあった。
***
山田トミ、八十一歳。
小さな平屋にひとりで暮らす、視力の弱った老女だった。
毎朝の習慣は、仏壇に水を供え、線香をあげること。
「今日もよろしくねぇ」と仏前に語りかけ、その後は杖をついて近所のスーパーへ向かう。
買うものは決まっている。
卵一パックと牛乳一本、そして半額になった魚の切り身。
ある夕暮れ、帰り道で彼女は奇妙な人影を見つけた。
薄闇の中で、葉を髪に、茎を腕に見せかけた“緑の人影”が、ただ立ち尽くしていたのだ。
だが老女の目には、それが寒そうな若者の姿に映った。
「まあ、こんな時間に……寒いでしょう。うちに来なさい」
迷いなどなかった。彼女は人影を自宅へ連れ帰った。
「孫みたいだねえ。ここで一緒に暮らそうか」
老女の暮らしは穏やかだった。
朝は新聞を広げて天気を声に出して読む。
すると、不思議なことに緑の人影も葉をぱさりと鳴らし、同じリズムで揺れた。
昼は畳に座って裁縫をする。その針を刺すたびに、葉先がちょん、と同じ動きをした。
夜、テレビの前であぐらをかくと、人影の幹がぐにゅりと折れて、同じ姿勢を真似してみせた。
ときには枝を器用に曲げ、星座の形をつくって見せることもあった。
「まあ、北斗七星かい? 覚えがいいねえ」
老女が笑えば、葉っぱがカサカサと擦れ、まるで照れ笑いを返すようだった。
「ほんとに孫みたいだよ」
老女は笑い、炊き立てのご飯を二膳分よそった。
片方は人影の前に置かれ、翌朝になると茶碗の中は空っぽになっていた。
食べたはずのないのに。だが老女は、むしろ嬉しそうに頷いた。
「よく食べる子は、元気でいいねぇ」
近所の人が訪ねてきたときのこと。
玄関先からふと居間を覗いた奥さんは、思わず足を止めた。
仏壇の前に座る老女の横で、緑の人影が両葉を合わせ、手を合わせる真似をしていたのだ。
しかも葉擦れの音が、まるで経を唱える声のようにざわざわと響いていた。
「……おばあちゃん、大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。孫ができたんだ」
その満ち足りた笑顔に、奥さんは背筋が寒くなりながらも、それ以上踏み込めなかった。
季節が巡り、老女の体は衰えていった。
買い物袋を持つのもつらくなったある日、人影が杖を支えるように葉を伸ばした。
「ありがとうねえ」と言って彼女は歩みを進める。
畳に座るのが難しくなったとき、人影は背を支えるように幹を曲げ、絡みついた。
それは、まるで忠実な孫のようだった。
最期の夜。
老女は布団の中で、緑の人影の葉に包まれながら、静かに囁いた。
「寂しくなかったよ。ありがとうね……」
そのまま呼吸は細くなり、やがて止まった。
翌朝。
平屋の屋根から巨大な枝が突き出し、家全体を覆っていた。
青臭い匂いと湿った土の香りが町内にまで広がり、近隣の人々は恐怖に駆られた。
だが誰も近づけなかった。
窓辺にはノアが立っていた。
白い息を吐き、腕に小さな鉢を抱えながら呟く。
「彼女にとっては、確かに幸福だったのかもしれない。
けれど、緑は養分を選ばない。ただ静かに取り込み、育つだけ……」
透き通る瞳に冷ややかな光を宿し、続ける。
「孤独でも、欲望でも、寄る辺なき心でも。
人は勝手に緑を鏡にしてしまう。――そして、取り込まれる」
ノアは鉢を抱え直し、朝霧に溶けていった。
残されたのは、しおれた老女の身体と、青臭い葉の残響だけだった。




