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成功の思考法

世界のどこかで、ふと出会うことがある。

その名はノア。人にも、妖精にも見える存在。

ノアはただ、あなたにひとつの道具を差し出すだけ。

それをどう使うかは、あなた次第。

行き着く先を、ノアは静かに見届けている。



野間マサキ、二十二歳。

平凡な大学生。講義に出て、サークルで笑い、バイトで疲れ、SNSをスクロールして一日が終わる。


けれど心の奥底で、彼は焦っていた。


「このまま大人になっていいのか?」

「俺は、何者にもなれないんじゃないか?」


ある雨の夕暮れ、傘を忘れて図書館の軒下で雨宿りしていたときだった。


隣に立つ細身の青年が、不意に声をかけてきた。

白いシャツに薄いジャケット。

体育祭の学生のように軽装なのに、どこか舞台衣装めいた洗練が漂っている。


透き通る瞳。

気品ある横顔。


ノアだった。


「君は、自分を縛っている。方法を探しているのに、方法に食われている」


青年の指先から差し出されたのは、一冊のノート。


背表紙には何の題名もなく、ページは真新しい白紙。

ただ、最初の一枚目だけにこう書かれていた。


『思考法の写本』




マサキは理由もなく、それを受け取った。



ノートを開いた翌日から、不思議なことが起きた。


一ページめくるたびに、新しい「思考法」が浮かんでくるのだ。


――ポジティブシンキング。

――逆境を利用せよ。

――成功者のマインドセット。


知識として読んだわけではない。

頭に直接、方法論が流れ込み、身体が勝手に動く。


サークルでのディスカッション。

マサキはいつになく熱弁し、仲間を圧倒した。


バイト先では売上を伸ばし、店長から「将来起業でもするのか」と笑われた。


SNSに書き込む言葉にも力が宿り、フォロワー数は日に日に伸びていった。


「人は環境で変わる。小さな行動を積み重ねれば、大きな未来になる」



「かっこいい!」

「勇気をもらった!」

称賛のリプライが並び、マサキの胸は熱くなった。


けれど、一部にはこんな声もあった。


「テンプレートだな」

「ロボットみたいで怖い」


マサキは見なかったことにした。



ある夜、帰宅途中の交差点で事故があった。

横転した車。血の匂い。

道端で泣き叫ぶ母親と、ぐったりした子ども。


マサキは震えた。

だがノートが囁いた。


「逆境を乗り越えるチャンスだ。恐怖に立ち向かえ」



マサキは声を張り上げ、母親の背を叩いた。

「大丈夫です! ここからが始まりです!」


母親は呆然とした顔で彼を見た。


救急車のサイレンが近づく中、マサキの言葉は虚空に響き、誰も救わなかった。


その夜のニュースには、事故の続報が淡々と流れた。


マサキは画面の下にスクロールし、SNSに書き込んだ。


「逆境こそ成長の種。涙のあとに未来はある」



いいねの数は跳ね上がった。

だが同時に、匿名のアカウントが吐き捨てた。


「事故現場でポジティブ連呼してた奴だろ」



マサキの胸に冷たい影が差した。



ノートは止まらなかった。

ページをめくるごとに、新しい思考法が現れる。


――弱さを捨てろ。

――感情を切り離せ。

――迷いを消せ。


ある講義中、マサキは教授に噛みついた。


「古い理論だ! 未来志向を見ろ!」


教室は凍りつき、友人が慌てて止めに入った。


SNSにはマサキの断言が次々に投稿された。


「弱音はゴミだ」

「迷いは時間の浪費だ」

「涙は進化を阻害する毒」



フォロワーはさらに増えた。

だが現実のマサキの顔からは笑みが消えていた。


鏡を見ると、自分の瞳の奥に“他人の言葉”が渦巻いていた。

考えているのは自分か? ノートか?


夜ごとに悪夢を見た。

耳元で数百の声が重なり合い、彼を責め立てる。


「もっとポジティブに」

「もっと強く」

「もっと速く」

「迷うな、泣くな、弱るな」


夢から醒めても、声は止まらなかった。


ある日、ノートの最後のページが黒く染まった。

そこに浮かび上がったのは、血文字のような一文。


「お前自身を捨てろ」


マサキの手は震えた。

SNSを開けば、数千のリプライが押し寄せる。


「共感します!」

「救われました!」

「信者になります!」


それらが、同時に嘲笑に変わる。

「マニュアル人間」

「思考停止」

「狂ってる」


画面の文字がぐにゃりと歪み、炎のように踊った。


マサキは叫び声を上げ、ノートを床に叩きつけた。


だがノートは床に溶けるように消え、彼の胸の奥から声が響いた。


「僕は君だ。君は僕だ。もう切り離せない」



数日後。

SNSのタイムラインに奇妙なニュース記事が流れた。


【速報】大学生が意味不明な言葉を叫びながら街を走り回る。

「俺はノートだ! 俺は正解だ!」


通行人の証言:「まるで自分の心を持っていない人形のようだった」



その下に、匿名アカウントの書き込みが並んだ。

「ポジティブ馬鹿が壊れた」

「結局、自己啓発に食われたんだな」



夜。

静まり返った講義棟の屋上で、マサキは膝を抱えていた。

空は闇に沈み、風がページをめくる音を連れてくる。


そこにノアが現れた。

月明かりを背に、淡く微笑む。


「君は答えを求めた。でも方法は答えじゃない。方法はただの形だ」


ノアは掌を開き、溶け落ちたノートの灰を掬い上げた。


「彼が手に入れたのは、未来じゃない。――空虚の思考法だ」


ノアの声は冷ややかに夜に溶けた。


マサキの口からは、まだ“正しい言葉”が零れ続けていた。

けれどその声はもう、誰の耳にも届いていなかった。



「人は方法を求める。だが、方法に縋れば心を失う。思考法とは、万能の呪いだ」


ノアの瞳に映ったのは、廃墟のように空っぽの青年の背中だった。

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