夢の透明メガネ
世界のどこかで、ふと出会うことがある。
その名はノア。人にも、妖精にも見える存在。
ノアはただ、あなたにひとつの道具を差し出すだけ。
それをどう使うかは、あなた次第。
行き着く先を、ノアは静かに見届けている。
***
大学二年の広瀬 祐介は、退屈な午後のキャンパスを歩いていた。
講義もサークルもつまらない。日常は透明で、何も見えない。
――そう思った矢先だった。
ベンチに腰掛けた青年が、まるで光の粒を纏うようにそこにいた。
白シャツにジーンズ、けれどどこか絵画から抜け出したような気品を漂わせている。
その青年――ノアは、祐介をじっと見て微笑んだ。
「君は、もっと“知りたい”んだろう?」
ノアが差し出したのは、一見ただの黒縁メガネ。
だがレンズは薄く光を帯び、祐介の手に吸い込まれるように渡された。
「これは“透明メガネ”。覗けば、見たいものが透けて見える」
心臓が跳ねた。
祐介の脳裏には、いつも同じ講義室にいる憧れの女子の姿が浮かんだ。
最初は、笑いが止まらなかった。
キャンパスを歩く女子学生たち。
服の下に隠された下着が丸見えになり、祐介は「本当に透けてる」と小声で興奮した。
特に憧れの彼女――加奈の姿を透かして見たとき、夢のようだと思った。
「やべぇ……最高じゃん、これ」
だが、興奮は長くは続かなかった。
数日経つと、透けるのは服だけではなくなった。
皮膚の奥に走る赤い血管。
筋肉が伸び縮みする様。
骨格が組み上がった不気味な人形のような姿。
――見たくなかったものまで、透けていく。
祐介は吐き気を催した。
加奈が笑顔で話しかけてきても、透けた顔は白い頭蓋骨が歪んで笑っているようにしか見えない。
授業中、隣の友人に目を向けると、心臓がどくどく動き、胃袋が収縮する様子まで透けて見えた。
「……やめろ、やめろよ……!」
メガネを外しても、残像のように透けた像が目に焼き付いて離れない。
さらにある日。
祐介はついに「心」が透けて見えることに気づいた。
加奈の胸の奥。
そこには花のような光……ではなく、どす黒い淀みが渦巻いていた。
「みんな私のこと、可愛いって言ってくれるけど、本当にそう思ってるの?」
「友達の彩香なんて大嫌い。全部私の真似ばっかりして」
嫉妬、自己嫌悪、虚栄心。
友人の胸の奥には、「俺は本当は落ちこぼれだ」「羨ましい」という小さな呪詛の塊が見えた。
教授の胸の中には、「研究費さえ手に入れば学生なんてどうでもいい」という冷え切った歪みがあった。
「……うそだろ……こんなの、誰も信じられねぇじゃん」
街を歩けば、人々の胸に溜まる濁流ばかりが目に入る。
メガネを外しても、もはや透視は止まらなかった。
絶望に震える祐介の前に、再びノアが現れた。
夕暮れのキャンパス、木漏れ日を背に、彫刻のような顔立ちで立っていた。
「どうだい、“見たかったもの”は見えたか?」
祐介は泣き叫んだ。
「俺は……ただ、女の子の下着が見たかっただけなんだ! こんなの望んでねぇ!」
ノアは淡く微笑んだ。
「君は“人間の欲”を透かして見たんだ。裸なんかじゃない。本当に透けて見えたのは、人間の愚かさそのものだった」
ノアの瞳は湖面のように澄み、けれどどこか冷たかった。
「見たいものだけが見えると思った? でもね……最後に透けるのは、いつだって自分自身なんだよ」
祐介は恐る恐る、自分の胸に手を当てた。
そこに透けて見えたのは――肉欲にまみれ、卑しく舌を出して笑う、自分自身の“本性”。
「や、やめろ……俺じゃない、こんなの俺じゃない……!」
メガネを叩き割った。
だが床に転がったのは、粉々のガラスではなく――血に濡れた、自分自身の眼球だった。
ノアはそれを拾い上げ、無表情に呟いた。
「やっぱり人間は、透けた先に耐えられない。
欲を覗けば、最後に映るのは――自分という怪物だから」
そして夕闇に溶けるように姿を消した。
祐介の叫びだけが、透明な残響となって夜のキャンパスに響き続けていた。




