借りられ競走
世界のどこかで、ふと出会うことがある。
その名はノア。人にも、妖精にも見える存在。
ノアはただ、あなたにひとつの道具を差し出すだけ。
それをどう使うかは、あなた次第。
行き着く先を、ノアは静かに見届けている。
***
秋の空は、どこまでも高く澄んでいた。
中学三年の 北村優太 は、体育祭のクラステントの隅でそわそわと靴ひもを結んでいた。
心の中でずっと意識しているのは、隣のクラスの 黒田真帆。
髪を耳にかけて笑う仕草。
ノートを忘れたときにペンを貸してくれた優しさ。
一緒に帰ったことは一度もないのに、彼女が体育館でバレーボールを打つ姿を見ただけで、夜眠れなくなるほどだった。
「次の借り物競走、北村だろ? 頑張れよー!」
友人の冷やかしに、優太は苦笑いを返す。
(頑張るって……何を頑張ればいいんだよ)
競技の列に並ぶ。手のひらは汗でじっとり濡れていた。
順番が回ってきて、カードを引く。
そこに書かれていたのは――
「あなたが思う美しく愛おしいもの」
一瞬で頭が真っ白になった。
(な、なんだよこれ……!
花とか宝物とか……いや、違う。
俺にとって“美しく愛おしいもの”って……)
浮かんだのは、真帆の笑顔。
だが、人前で彼女を呼べるだろうか?
クラス中にからかわれる未来が見える。
視線を泳がせた瞬間、トラックの外に立つひとりの青年が目に入った。
白いシャツに軽やかなブルゾン。
どこかラフなのに、細部まで計算されたおしゃれさ。
光を受けた横顔は美しく、中性的で、まるでアーティストが舞い降りたように人目をさらっていた。
ノアだった。
その瞳と合った瞬間、優太の胸は一気に高鳴る。
(これこそ……“美しく愛おしいもの”なんじゃ……)
足が思わずノアの方へ向かう。
だが、ノアは静かに微笑み、首を横に振った。
(違うだろう。答えは君の中にある)
優太ははっとして正気に戻った。
拳を握りしめ、心臓の鼓動に背中を押されるように、観客席へと駆け出した。
「く、黒田!」
真帆が振り向き、驚いたように目を丸くした。
「……“美しく愛おしいもの”ってお題で……俺にとって、それは……お前だから!」
声は震えていた。
頬は真っ赤に燃えていた。
周囲の生徒たちから
「キャー!」
「告白かよ!」
「うぉー!」
と歓声が飛ぶ。
真帆はしばらく固まった後、ゆっくりと微笑んだ。
「……じゃあ、一緒に行こっか」
その笑顔は秋空よりもまぶしく、優太の胸を貫いた。
そして二人は並んで走り出し、ゴールテープを一緒に切った。
競技が終わり、テントの片付けが進む校庭の隅。
優太が真帆とぎこちなく並んで歩いていると、背後から声が響いた。
「いい結末になったみたいだね」
振り返れば、夕暮れの光を背にノアが立っていた。
軽装なのにどこか気品があり、絵画の中から抜け出たような美しさで。
ノアは片手に白い封筒を掲げ、くすりと笑う。
封筒には、細い字でこう書かれていた。
「借りられ競走」
「そうそう。今回のアイテムはこれだったんだ」
ノアが軽く肩をすくめ、
「うまくいったね」と真帆を見つめる。
真帆が体操着のポケットから同じ封筒をとりだすと、中には便箋が一枚。
顔を赤くした真帆が震える指で開く。
そこには確かに真帆の文字で名前が書かれていた。
北村優太
真帆は全身を熱くし、封筒を閉じ、横目で優太を見上げる。
「……だから、私も来てくれるって思ってたの」
優太の心臓が破裂しそうになる。
ノアは満足げに微笑むと、秋の光に溶けて消えていった。
残された二人は、顔を見合わせ、言葉を失ったまま、ただ胸の鼓動に耳を澄ませていた。




