いいねケース
世界のどこかで、ふと出会うことがある。
その名はノア。人にも、妖精にも見える存在。
ノアはただ、あなたにひとつの道具を差し出すだけ。
それをどう使うかは、あなた次第。
行き着く先を、ノアは静かに見届けている。
***
小林美奈は、SNSに毎日のように写真を投稿していた。
特別な才能があるわけじゃない。けれど、誰も気に留めない小さな一瞬を切り取ることに喜びを感じていた。
夕暮れに沈む街並み。
カフェのテーブルに置いた小さな花。
路地裏の古い看板に差す光。
フォロワーは少なかったが、わずかに寄せられる「いいね」は、確かに誰かの心に届いた証のようで、彼女を支えていた。
それでも美奈の胸には焦りがあった。
(どうして私は、もっと“数字”がつかないんだろう……?)
そんな時、黒いマスクをつけた青年が現れた。
街灯に照らされたその姿は、中性的で、アイドルのように整った顔立ちをしている。
大きな瞳は冷たく光り、けれど一瞬、美奈が見惚れてしまうほどの美貌だった。
彼の名はノア。
彼が差し出したのは、透明なスマホケース。
「これを使えば、君の投稿はもっと届くよ。ただし……見せるものを選ぶのは君自身だから」
美奈は深く考えず、そのケースを受け取った。
ケースを装着して最初に投稿したのは、通勤途中に撮った何気ない夕空。
たった一枚のその写真が、数千の「いいね」を集めた。
コメント欄は「素敵」「心が安らぐ」で埋まり、フォロワー数は瞬く間に増えていく。
企業からの依頼まで舞い込んだ。
美奈は心の底から嬉しかった。
(やっと……やっと私の投稿を見てもらえたんだ!)
その後もしばらくは、日常の小さな風景を切り取っただけで、多くの反応が返ってきた。
「美奈さんの写真、好きです」
そんな言葉に、涙が出るほど満たされた。
だが、数字の魔力は甘く危うかった。
少しでも「いいね」が伸びないと落ち着かず、(もっとバズる写真を……)と考えるようになった。
彼女は自分の視点を捨て、ただ「映える」ものを撮り始めた。
高価なスイーツ。
派手な服。
過激なポーズ。
数字は一時的に伸びたが、コメントは「最高」「かわいい」「素敵」の繰り返しだけ。
かつて心を込めてくれた言葉は、どこにもなかった。
(でも……まだ足りない。もっと反応が欲しい)
欲は止まらなかった。
そして、異変が起きた。
「この壁、○○のマンションのじゃない?」
「最寄り駅、□□でしょ?」
コメント欄に、写真に映り込んだ背景を特定する声が現れ始めた。
次第にエスカレートしていく。
「そのコップ、〇〇ブランド限定品だよね」
「机に置いてある本、昔の彼氏からもらったんじゃない?」
「笑顔が引きつってる。会社で浮いてるね多分」
誰にも話していない秘密まで、まるで心を覗かれているかのように暴かれていった。
(どうして……知ってるの……?)
恐怖に震え、投稿を削除しても遅かった。
誰かが保存し、拡散する。
「#特定班仕事早い」
ハッシュタグがつき、彼女の写真は勝手に流通していった。
現実にもすぐに変化が現れた。
会社の帰り道、背後に人の気配を感じる。振り返ると、見知らぬ男が立ち止まり、スマホをこちらに向けていた。
カフェでランチをしていると、隣の席の客がこちらをじっと見続けている。
マンションに帰ると、入り口の前で誰かが待っている気配がある。
「ファン……なのかな……?」
恐怖に震えながらも、美奈はその光景を写真に撮り、投稿してしまった。
「つけられてるかも、人気になった証拠かな」
ハッシュタグをつけてアップすると、すぐに数千のいいねが押された。
(やっぱり……私、特別なんだ……!)
恐怖と快感が入り混じり、彼女は自分から危うい状況を晒すようになっていった。
次第に睡眠は削られ、食事ものどを通らなくなった。
夜中、部屋の窓の外からスマホのシャッター音が聞こえる気がして目を覚ます。
それでも彼女はスマホを離せない。
画面の光が頬を照らし、虚ろな目は通知音に縛られていた。
鏡に映った自分の顔は、アイコンの笑顔そのものに変わりつつあった。
作り笑いが貼りついて、もう戻らない。
「……最高……かわいい……素敵……」
かすれた声で、通知と同じ言葉を繰り返す。
涙と嗤いが混じった表情で、ただ数字を眺める廃人になっていた。
窓辺に立つノアが、その光景を見下ろしていた。
「最初は、本当に良い投稿をしていたのにね。
欲を出して、中身を捨ててしまった。
道具はただ広げただけ。罰を呼び込んだのは、君自身だよ」
黒いマスクの下で、ノアは静かに微笑んだ。
通知音はなおも鳴りやまず、虚ろな「いいね」が、美奈の廃人の笑みを照らし続けていた。
そして……その笑みの下から、奇妙な痕が浮かび上がっていった。
腕に「#最高」
脚に「#かわいい」
頬に「#素敵」
皮膚に焼き付くように現れたハッシュタグは、次々と身体を覆っていく。
美奈は呟いた。
「……これで……もっと、いいね……」
それは妄想の産物なのか、本当に現実に起きていることなのか。
誰にも確かめる術はなかった。
ただ一つ確かなのは、彼女がもはや人間ではなく——
拡散され、消費されるコンテンツそのものへと変わり果てていったということだけだった。