愛しの観葉植物
世界のどこかで、ふと出会うことがある。
その名はノア。人にも、妖精にも見える存在。
ノアはただ、あなたにひとつの道具を差し出すだけ。
それをどう使うかは、あなた次第。
行き着く先を、ノアは静かに見届けている。
***
村井達郎、三十六歳。独身、営業職。
仕事帰りの電車、窓ガラスに映る自分の顔は、疲れ切っていて、どうにも冴えない。
帰宅しても待っているのは、狭いワンルームと、冷めきった弁当、そして沈黙だけ。
……だったのだが。
数ヶ月前、ふと気まぐれで買った小さなパキラが、部屋に置かれた瞬間、空気を変えた。
玄関を開けて最初に目に飛び込む、やわらかい葉の影。
照明に照らされてゆらりと揺れるたび、「おかえり」と言われている気がする。
孤独でひび割れた心を、緑の指先がそっと撫でてくれたようだった。
しかし、その“癒し”はすぐに欲望へと変わっていく。
ある日、同僚が何気なく口にした。
「村井さん、最近いい顔してますね」
その一言が、胸を撃ち抜いた。
――変わったと認められた。
それだけで、達郎は舞い上がった。
「俺は癒されてる。都会の喧騒に呑まれない余裕のある大人なんだ」
そう思い込み、次々と鉢を買い足し始めた。
モンステラの葉は月明かりをすくい、サンスベリアは鋭く空気を切り裂く。
フィカス・ウンベラータの丸い葉は、まるで掌に抱かれているような安らぎをくれた。
気づけばワンルームは、小さな植物園になっていた。
家賃より高いLEDライトを買い込み、真夜中でも昼のように照らす。
水を惜しまず注ぎ、肥料を過剰に与え、土に語りかける。
「お前たちも頑張れよ。俺を癒してくれよ」
――それはもう“世話”ではなかった。
支配することで、達郎は自分の存在を確かめていたのだ。
ある日、観葉植物専門店。
湿った土の香りの奥から、ひとりの青年が姿を現した。
麻のシャツに革のエプロン。片腕には陶器の鉢。
無造作に整えられた髪、透明感のある瞳。
その容姿は、都会の庭に突然現れた“庭師の王子”のようだった。
「君は……ずいぶん緑に取り憑かれているね」
青年――ノアは、葉擦れのように柔らかく笑った。
彼が差し出した鉢には、小さな苗木。
柔らかな葉の形は、妙に人の指先を思わせた。
「この苗は、人の心を映す。育て方次第で、君の欲望すら姿に変える」
その言葉に抗えず、達郎はまるで恋に落ちるように鉢を受け取った。
苗は異様な速度で育った。
日ごとに葉を広げ、茎を伸ばし、やがてベッドサイドを覆う。
ある夜、達郎は気づく。
ベッドに横たわると、葉が同じ角度で傾いている。
机に向かって頭を抱えると、茎もまた垂れ下がり、同じ姿勢をとる。
笑いかければ、葉がふるふると震え、「くすっ」と笑った気さえする。
「……かわいいな」
陶酔は深まり、SNSに写真を投稿しては「俺の相棒だ」とアピールした。
「緑のある生活、最高!」
「やっぱり自然って癒される」
承認の数字が増えるたび、胸が熱を帯びた。
しかし現実の部屋は、湿気と腐敗臭で満ちていた。
鉢の根は肥料焼けで茶色に変色し、土には白いカビが広がっている。
それでもやめられない。
「もっと俺を癒やせ」「俺を見ろ」
恋人に縋るように、植物に欲望をぶつけ続けた。
ある晩、同僚を部屋に招いた。
ドアを開けた瞬間、むせ返る湿気と土の匂いに、同僚は顔をしかめた。
「……すごいな。いや、“すごい”っていうか……正直、ちょっと怖いぞ」
達郎は笑い飛ばす。
「わかってないな。触ってみろよ。俺の“家族”だ」
同僚は足早に帰っていった。
苛立った達郎はベッドサイドの植物に囁く。
「わかるのは、お前だけだよな……」
その瞬間、葉が――ほんの少しだけ、頷いたように見えた。
その夜。
ベッドに横たわる達郎の胸に、一枚の葉がふわりと触れた。
温かく、柔らかく……人の手のようだった。
「もっとだ……俺を包んでくれ」
その言葉に応えるように、植物は形を変えていく。
茎は腕となり、葉は髪となり、幹は背骨のように伸びた。
そして、ベッドから立ち上がったのは――村井達郎を模した“緑の人影”。
陶酔に震えながら、彼は手を伸ばす。
「そうだ……俺と一つになろう……」
しかし次の瞬間、達郎の体はベッドに沈んだ。
虚ろな瞳のまま、呼吸は途切れる。
ベッド脇に立つ“緑の人間”は、葉を揺らしながら静かに振り返った。
ドアの向こうへ――外の世界へと歩き出す。
翌朝。
アパート前の道を掃除していた管理人が、ふと息を呑んだ。
人のように歩く観葉植物が、道を横切っていくのを見たのだ。
「……夢でも見たか?」
目をこすったときには、その姿はもう消えていた。
部屋には、しおれた村井達郎の体と、土の抜け落ちた空の鉢だけ。
窓辺には、庭師の姿をしたノアが立っていた。
鉢を抱え、柔らかに微笑む。
「人は緑に癒される。けれど、欲を塗り込めれば、それは癒しじゃなく呪いに変わる」
ノアの瞳が淡く光る。
「彼は“癒されたい”んじゃなかった。“見てほしい”“満たされたい”。その欲を押し付け続けた結果、緑に映され、抜かれてしまったんだ」
ノアは鉢を抱え直し、庭師らしい仕草で土を撫でた。
「緑は、ただ静かに呼吸しているだけ。人の欲を映す鏡じゃない。……でも、人は勝手にそれを鏡にしてしまう」
朝の光の中、ノアの姿は溶けるように消えていった。
残されたのは、青臭い緑の匂いと、湿った土の香りだけだった。




