スキンケア・ラビリンス
世界のどこかで、ふと出会うことがある。
その名はノア。人にも、妖精にも見える存在。
ノアはただ、あなたにひとつの道具を差し出すだけ。
それをどう使うかは、あなた次第。
行き着く先を、ノアは静かに見届けている。
***
工藤理沙、23歳。
社会人一年目を迎えたばかりの、ごく普通の女性だった。
けれど毎日が不安でいっぱいだった。
オフィスの蛍光灯の下でふと鏡を見ると、毛穴の影がやけに目立つ気がする。
通勤電車で流れる広告、スマホのSNSに現れるインフルエンサーの投稿、ドラッグストアの棚――どこもかしこも同じ言葉を突きつけてきた。
「あなたの毛穴、大丈夫?」
「今のままでは、5年後に後悔します」
理沙が特に心を掴まれていたのは、美白スキンケアのカリスマ――ミラの発信だった。
最初はポジティブで希望に満ちた言葉に勇気づけられていた。
「自分を磨けば、自信につながる」
「笑顔は肌から始まる」
そんな明るいメッセージが、毎日の小さな支えになっていたのだ。
だが最近のミラの投稿は違っていた。
「毛穴ゼロを手に入れないと、時代に取り残される」
「シミは一度出たら、一生消えない」
その言葉が理沙の心に杭のように打ち込まれ、息苦しさを増していた。
ため息をつきながらも、理沙はまたひとつ化粧品を手に取ってしまう。
最初は安価な化粧水を少しグレードアップする程度だった。
だが、すぐにエスカレートした。
「毛穴レスこそ正義」
「シミゼロで未来が変わる」
「透明感のない肌に、明日はない」
気づけば洗面台の棚は、スキンケア用品で埋め尽くされていた。
化粧水は3種類。
乳液も朝用と夜用。
さらに“導入美容液”“鎮静アンプル”“ピーリングジェル”。
休日、バイト先の後輩に言われた。
「先輩、洗面所に研究室でも開くんですか?」
理沙は笑ってごまかした。
けれど胸の奥では、別の声が囁いた。
(……まだ足りない)
ある夕暮れ。帰り道、スマホの画面に鮮やかな広告が浮かんだ。
> 「透明感100%の素肌を、あなたに」
指先が勝手に震えた。
陶器のような肌のモデル。毛穴など存在しない完璧な顔。
どこかで見たミラの広告を思い出させる。
「これだ……」
購入ボタンを押す指に、迷いはなかった。
数日後。
届いた美容液を塗り重ね、乳液を二度塗りし、美容液を何層にも重ねる。
翌朝、鏡に映る理沙の顔は、つややかというよりカチコチに固まった仮面のようだった。
それでもSNSに自撮りを投稿する。
「肌きれい!」「透明感すごい!」とコメントが並ぶ。
だが中には「加工っぽい」「不自然」という声もあった。
理沙はさらに塗った。
朝も夜も、寝る前も。
冷蔵庫を開ければ、中は食品ではなく美容液の小瓶で埋め尽くされていた。
「もはや冷蔵庫じゃなくて美容庫だね」――友人に笑われても、理沙は笑えなかった。
ある夜、眠れずに洗面台の前に立った。
鏡に映るのは、確かに毛穴レスの肌。
でも、そこに浮かぶのは別のリスト。
頬の赤み。
唇の乾き。
目元の影。
広告で見た“欠点リスト”が次々に思い浮かび、すべてが欠点に見えた。
「まだ……完璧じゃない」
そのとき、背後から足音が響いた。
ノアだった。
白いシャツに黒いコート。中性的な微笑みを浮かべ、透き通る瞳で理沙を覗き込む。
「君は、自分を探しているつもりで、実際は“欠点”ばかりを探す目になっている」
ノアの手から差し出されたのは、小さな銀縁の手鏡。
月光を浴びて淡く光るその鏡は、呼吸を忘れるほど美しかった。
「これを覗けば、“完璧な肌”が手に入る。……少なくとも、そう見える」
理沙は躊躇わずに受け取った。
翌朝。
鏡に映った自分は透き通るような美肌。
毛穴ゼロ、シミゼロ。
理沙は歓喜してSNSに投稿した。
「神すぎる」「加工なしでこれ?」とコメントが殺到し、フォロワーは爆増した。
だが現実では、同僚が首を傾げた。
「……理沙ちゃん、肌、荒れてない?」
赤く炎症を起こした頬。
でも、理沙には見えない。
彼女の目には“完璧な姿”しか映らなかった。
日々、フォロワーは増え、商品は売れた。
だが理沙の心は渇いていった。
夜、コンパクトを覗くたびに――鏡の中では、さらに滑らかな、異様なまでに“完璧”な顔が映る。
「まだ……足りない」
指が震え、頬を爪で掻きむしる。血がにじんでも、彼女は止まらなかった。
そして、ある夜。
理沙はとうとう、鏡に映る自分の“透明感100%”の姿を信じ切ってしまった。
次の瞬間。
鏡の奥で、彼女の輪郭が淡く滲み――徐々に透けていった。
腕が、頬が、髪が。
空気に溶けるように、少しずつ“存在感”を失っていく。
「やっと……完璧に……」
理沙は微笑んだ。
しかし、彼女の声はもう誰にも届いていなかった。
窓辺にノアが立っていた。
銀の手鏡を掌に転がしながら、淡く呟く。
「透明感100%。……つまり、存在感0%」
ノアは唇に冷ややかな笑みを浮かべた。
「彼女が手に入れたのは、美容液じゃない。不安という名の商品だ。……それが“不安マーケティング”。美の仮面をかぶった、いちばん残酷な売り物なんだよ」
その言葉の裏で、ノアはふと過去を思い出す。
――あの夜、カリスマと呼ばれたミラもまた、不安を撒き散らす存在へと変わっていった。
理沙はその余波を浴びただけにすぎない。
鏡の中には、完璧に仕上がった理沙が微笑んでいた。
だが現実の世界から、彼女はもう消えていた。




