漆黒のスキンケア
世界のどこかで、ふと出会うことがある。
その名はノア。人にも、妖精にも見える存在。
ノアはただ、あなたにひとつの道具を差し出すだけ。
それをどう使うかは、あなた次第。
行き着く先を、ノアは静かに見届けている。
***
彼女の名前はミラ。
SNSで数百万のフォロワーを誇る、美白スキンケアのカリスマ。
朝、柔らかな光が降り注ぐ窓辺。
白いカーテンの前で、スマホに微笑みかける。
「今日も、自分を大事にしてね。ほんの5分のケアが、未来の笑顔を作るから」
その声は透明で、聞く者をそっと抱きしめるようだった。
コメント欄は「ミラさん見てると頑張れる!」「私も変われる気がする!」で埋まる。
ミラは人々の“希望”だった。
「シミを消す」じゃなく「自分を磨く楽しさ」。
「欠点を直す」じゃなく「好きな自分を増やす」。
前向きな言葉で、彼女は憧れの象徴になった。
フォロワーの日常にも、ミラは確かに生きていた。
受験勉強でクマに悩む女子高生は、彼女の勧めたアイクリームを塗りながら「私も努力してる」と自分を励ます。
産後で荒れた肌に悩む母親は、ミラの優しい笑顔を見て「また笑えるかも」と涙ぐむ。
会社帰りのOLは満員電車の中、ミラの投稿を見て「明日も頑張ろう」と唇をかむ。
――確かに届いていたのだ。
だが、光の裏には冷たい数字があった。
広告案件、エンゲージメント率、フォロワー数。
かつては右肩上がりだった棒グラフが、ある日ふと、鈍った。
「……減ってる?」
夜、ベッドでスマホを見つめるミラ。
数字は残酷だ。
優しい言葉を投げても反応は鈍い。
商品紹介をしても、売れ行きは落ちた。
「私、何か間違ってるの……?」
不安が胸をかすめる。だが答えはない。
そして、運命の一言。
ある夜の配信。
焦りのせいで、彼女は思わずこう言った。
「シミって……一度できたら、一生消えないんです。だから早めの対策を」
ほんの一言のはずだった。
しかし翌朝。紹介した美容液は即完売。
コメント欄は「怖い!」「早く買わなきゃ」で炎上のように埋まる。
SNSのトレンドに「ミラ美容液」が上がり、ニュースは「爆売れ」と報じた。
胸の奥が冷たくなる。
(違う……こんなの、私がやりたかったことじゃない)
だが、数字は正直だった。
フォロワーは戻り、広告依頼は増えた。
「……一度だけ。偶然よ」
そう呟く声は、自分に言い聞かせるように震えていた。
その夜。
「気づいたか、人は光だけじゃ飽きるんだ」
背後から響いた笑い声に、ミラは振り返った。
そこに立っていたのは、漆黒のスーツに身をまとい、艶やかなメイクをしたクラウン。
赤い口元がにやりと吊り上がる。
「不安は甘い蜜だ。君がほんの一言漏らしただけで、人々は群がったろう?」
指先に小さな黒いコンパクトが光っていた。
「これを使えば、君の言葉はもっと強くなる。不安は伝染し、誰も止められない」
冷たい声が耳を打つ。
脳裏に浮かぶのは、あの棒グラフ。
数字。人気。渦巻く期待。
震える指が、ゆっくりと黒いコンパクトに伸びていった。
「毛穴ゼロの肌を手に入れないと、時代に取り残されます」
落ち着いた声。だがその響きには熱があった。
コンパクトの鏡に映る自分は、どんどん「足りない部分」を映し出す。
毛穴ゼロ。
シワゼロ。
シミゼロ。
透明感100%。
あり得ないはずの“完全”を、彼女は次々と口にする。
視聴者は不安に駆られ、商品は瞬時に売り切れる。
数字は跳ね上がり、企業は拍手を送り、メディアは「ミラは時代の象徴」と囃し立てる。
だが――。
街の化粧品売り場で、泣きながらクリームを買う女性。
掲示板には「ミラの言葉で毎晩不安になる」と並ぶ書き込み。
そして、ミラ自身もまた鏡に囚われていた。
ライトを何度調整しても、コンパクトは告げる。
――まだ足りない。
夜風のベランダに、再びクラウンが現れる。
「いい流れだな。人は恐れるほど、君に縋る」
「……違うの。私は、みんなを綺麗にしたかっただけ」
「不安こそが、最大の燃料だよ。安心は退屈を呼ぶ。退屈は人を去らせる」
コンパクトの黒い光は、蛇の瞳のように冷たく光った。
ミラは嗚咽を噛み殺し、視線を逸らした。
暴走は止まらなかった。
「手の甲のシワは年齢を隠せません」
「首の横線は若さを奪います」
「唇の色が薄いのは生命力の衰えです」
不安を煽るたびに商品は売れ、フォロワーは泣きながら感謝した。
「ミラのおかげで頑張れる!」
だがその声は、必死に縋りつく悲鳴に近かった。
そしてある夜。
ミラはコンパクトを見つめながら、自分の頬を掻きむしっていた。
配信画面に映された彼女の顔に、血がにじみ、皮膚が爛れてもなお呟く。
「……完璧にならなきゃ」
コンパクトの中で、クラウンの笑みが揺れる。
「美は本来、人を励ますものだ。だが“不安”に変わった瞬間、それは呪いになる」
そのとき。
背後に淡い光が差した。
静かな足音。
ノアが立っていた。
「彼女は、美容液を売っているんじゃない」
窓の外に視線を向けながら、淡く告げる。
「売っているのは“不安”。完璧にならなきゃいけないという恐怖だ。人はその幻想に財布を差し出す。……それが不安マーケティング。美の仮面をかぶった、最も手軽で、最も残酷な商品なんだよ」
ノアの声は風に溶け、消えていった。
残されたのは画面に映るミラの微笑み。
その瞳の奥に映っていたのは、誰よりも自分自身の不安の影。
数日後。
ミラの配信は突如止まり、コメント欄はざわめきに満ちた。
やがて小さなニュースが流れる。
――人気インフルエンサー、ミラ。突然の活動休止。
理由は「体調不良」。詳細は不明のまま。
画面の向こうで泣いていたフォロワーたちは、その記事を何度も読み返した。
そこに映らない不安の正体を、知ることはなかった。




