靴下紛失の5大要因
世界のどこかで、ふと出会うことがある。
その名はノア。人にも、妖精にも見える存在。
ノアはただ、あなたにひとつの道具を差し出すだけ。
それをどう使うかは、あなた次第。
行き着く先を、ノアは静かに見届けている。
***
大原紀子、三十六歳。
ごく普通の主婦であり、洗濯物と家事に追われる毎日を送っていた。
しかし、ある日の午後。洗濯物を畳んでいると――。
夫の靴下が、一足分だけ見当たらなかった。
「……変ね」
その瞬間から、紀子の“靴下調査”が始まった。
まず彼女が疑ったのは 洗濯機の中。
ゴムパッキンの奥に懐中電灯を差し込み、ドラムを回しながらチェックする。
指先に何か湿った布の感触。引っ張り出すと、黒ずんだ片方の靴下が出てきた。
「なるほど……第一の犯人は“洗濯機の奥の隠れ場所”ね」
ノートに赤字で書き込み、満足げにうなずく。
次に彼女は ベランダへ向かった。
物干し竿の下を這いつくばり、柵の隙間や庭の茂みを調べる。
すると風で飛ばされたらしい子供用の靴下が、植木鉢の影から出てきた。
「第二の犯人は……“風”」
彼女は線を引きながら記録をつける。
三つ目の真相は、 家族の仕業だった。
息子がランドセルから出したままの片方の靴下を押し込んでいたり、夫が片足だけ穴が開いた靴下を勝手に捨てていたり。
「……ちょっと! 勝手に捨てないで!」
「だって穴が……」
「これは私の調査対象なの!」
夫が苦笑いし、子供たちが「ママ怖い」と囁く。だが紀子は構わなかった。
「第三の犯人は“家族の行動”」
ペンを走らせる。
そして四つ目。
意外にも多かったのは 自分自身の記憶違いだった。
洗濯前に確認すると、靴下の片方はすでに穴だらけで、自分で捨てていた。
そのことを後になって忘れて「なくなった!」と騒いでいたのだ。
ノートにはこう書き込まれた。
「第四の犯人……“記憶の抜け落ち”」
こうして大原紀子は靴下紛失の四大要因を見事に突き止めた。
だが――それでも、どうしても説明できない紛失が残った。
「……全部当てはまらない。じゃあ、この靴下はいったいどこへ行ったの?」
深夜、ベランダに干したはずの子供用の白い靴下。
記録もつけ、風の有無も確かめ、家族も関与していない。洗濯機の奥も確認済み。
それでも、翌朝には忽然と消えていたのだ。
紀子はノートに大きく「???」と書き込み、唇を噛んだ。
そのとき、背後から声がした。
「君は真実を突き止めたいんだね」
振り返ると、そこにノアが立っていた。
短髪に透き通る瞳、中性的で妖艶な姿。
彼の手から差し出されたのは、小さな銀色の洗濯バサミ。
「これを使えば、靴下が消える瞬間を“見られる”よ」
紀子は震える手でそれを受け取った。
翌日。
その洗濯バサミで靴下を吊るした瞬間、紀子の目は驚愕に見開かれた。
――空気が裂けるようにして、黒い穴がぽっかりと開き、靴下がすっと吸い込まれて消えたのだ。
「……やっぱり……あったのね!」
紀子は狂喜した。ノートに「第五の犯人=異次元の穴」と書き込み、何度も実験を繰り返した。
消えるたびに拍手をし、目を輝かせる。
やがて紀子の世界は靴下だけになった。
家族が呼びかけても、「今、大事な記録を取ってるの!」と返すだけ。
夫はため息をつき、子供たちは遠巻きに母を見守るしかなかった。
夜。
ベランダの前で、紀子は自分の指先を穴へ伸ばした。
すると空気がゆらぎ、まるで水面に石を落としたように波紋が広がる。
次の瞬間、指先から腕、身体全体が“引き算”されるようにして、少しずつ透明になっていった。
皮膚も髪も衣服も、輪郭から削り取られるように、静かに空間へ溶け込んでいく。
彼女は微笑んだ。
「私……真実に触れたのね」
やがて紀子の姿は完全に消え、ベランダには風と月光だけが残った。
ただ一つ、銀色の洗濯バサミだけが取り残され、月光に淡く光っていた。
ノアは庭の隅からその光景を見ていた。
ふっと笑みを浮かべ、呟く。
「人は小さな不思議を追いかける。
靴下ひとつで人生を失くすほどにね」
彼は洗濯バサミを拾い上げ、枝にかけて立ち去った。
翌朝、隣人がそれを見つけて首をかしげる。
「大原さん、また落としたのかしら」
だが紀子を知る者は、もうどこにもいなかった。




