未来を斬る正義のメス
世界のどこかで、ふと出会うことがある。
その名はノア。人にも、妖精にも見える存在。
ノアはただ、あなたにひとつの道具を差し出すだけ。
それをどう使うかは、あなた次第。
行き着く先を、ノアは静かに見届けている。
***
藤堂誠、四十二歳。大学病院の心臓血管外科に所属する外科医。
「失敗しない男」──そう呼ばれるのも、もはや当たり前になっていた。
指先は正確無比。判断は冷静沈着。
だがその胸の奥には、いつも黒い炎のような恐怖が渦巻いていた。
――もし見落としたら?
――もし、自分のせいで患者が死んだら?
その恐怖が、彼を“神話”に押し上げてきた。
ある夜。
日付が変わるころ、更衣室の薄明かりで手術着を脱いでいた藤堂は、ふと背筋に寒気を覚えた。
廊下に誰かが立っている。
黒いマスクはつけていない。髪は短く整えられ、少年のように無造作。
艶やかな唇と、透き通った瞳。
ノアだった。
「……完璧を望むね。怖いくせに、それでも完璧を」
「っ……」
心の奥を射抜かれ、藤堂は言葉を失った。
ノアは微笑み、手を差し出す。
そこにあったのは真紅の外科手袋。しなやかな生地に、血管のような刺繍が指先まで走っている。
「これをはめれば、君の手は“未来のリスク”に届く。
まだ病気になっていない臓器も、誰も気づかない前駆病変も、この手袋は見逃さない。
……君は寿命を延ばしたいんだろう?」
説明はそれだけ。けれど藤堂の心臓は激しく打っていた。
「未来を救える」──その言葉に。
彼は迷わず手袋をはめた。
最初の効果は劇的だった。
術中、手袋が微かに震える。
その示した場所には、確かに微小病変が潜んでいた。
藤堂が切除すると、病理の報告で「将来的に悪化の可能性あり」と出る。
患者家族は涙を流し、新聞は「藤堂先生の奇跡」と書き立てた。
院内ではさらに神話が広がった。
だが、すぐに違和感が忍び寄った。
手袋は藤堂の意志を追い越すように動き始めたのだ。
ある心臓血管再建術。
手袋が突然、腹膜を押し分けて脂肪の小結節を露出させた。
「教科書なら温存だ」
そう思った瞬間、手袋越しにぞわりと電気が走った。
結果は……やはり「将来的に悪変する可能性あり」。
その一件以来、手袋は過剰に“未来”を切り落とすようになった。
肺の小結節、肝臓の色素斑、腸間膜の薄い繊維化……。
現代医学では“放置”と判断されるものまで次々と削ぎ落とす。
患者は術後に倦怠感を訴える。だが検査には何も映らない。
同僚がぽつりと呟いた。
「先生は……未来を守ってる。でも、それってどこまで未来なんだ?」
藤堂は答えられなかった。
ある夜、救急で若い患者が運ばれてきた。
肝移植の適応外。大量出血。
生き延びられるかは迅速な処置にかかっていた。
藤堂は迷わず執刀した。
だが──。
手袋が勝手に動き、右上腹部の結節をえぐり出そうとする。
「そこは……!」助手が叫ぶ。
出血が走り、モニターが警報を鳴らす。
「やめろ……!」藤堂は制止しようとする。
だが手袋は皮膚に吸い付き、手首に食い込み、まるで一体化したように離れない。
「クソッ……外れない……!」
選択肢はひとつ。
──自分の手首ごと切断するしかない。
一瞬の静寂。助手たちが息を呑む。
「……行くぞ」
メスを手に取り、己の腕に刃を入れる。
皮膚を断ち、筋肉を裂き、血管を露出させる。
血の匂いがむせ返る。
助手の呼吸が乱れる。
痛覚はない。
ただ外科医としての冷徹な動きが彼を支えた。
やがて断面が現れ、手袋は剥がれ落ちるように床に転がった。
べったりと血の筋が残り、ぴくりと痙攣して静まった。
患者の出血は止まった。
だが藤堂の右腕も、そこで終わった。
翌日。
ニュースは「奇跡の決断」と「暴走外科医」を同時に報じた。
院内では倫理委員会が立ち上がり、手袋の正体を調査すると発表した。
藤堂は窓の外を見つめる。
右腕はなく、白い包帯が不自然に膨らんでいる。
失ったものはあまりにも大きい。
けれど彼は確信していた。
──もし本当に“未来の死”を遠ざけられたのなら。
その代償は、もしかしたら価値があるのかもしれない。
だが現代医学はそれを「正義」とは呼ばなかった。
藤堂の立場は揺らぎ、外科医としての神話は崩れていく。
病院の裏口。
夜風が冷たく吹き抜ける。
ノアが立っていた。
床に転がった真紅の手袋を拾い上げる。
まだ湿っていて、脈動のような振動が残っていた。
ノアは掌で転がし、囁いた。
「人は失敗を恐れる。
でもね、失敗って人間の温度そのものなんだ。
完璧を求めすぎれば、手は肉を越えて理性をも越える。
君は少し先を救った。でも……その代償は、君自身の手だ」
ノアは笑い、手袋をポケットに仕舞う。
「僕は道具を渡すだけ。どう使うかは、いつだって君次第だよ」
夜の静寂に溶ける声。
藤堂の額を伝う冷汗。
遠くで病院の明かりが瞬いた。
誰が正しかったのか。
何が救いだったのか。
その答えを知る者は、もうどこにもいなかった。




