甘美なるスパイスの毒
世界のどこかで、ふと出会うことがある。
その名はノア。人にも、妖精にも見える存在。
ノアはただ、あなたにひとつの道具を差し出すだけ。
それをどう使うかは、あなた次第。
行き着く先を、ノアは静かに見届けている。
***
橋田浩一、四十五歳。
休日は家族と一緒に、評判の行列店に並ぶのが楽しみだった。
人気のラーメン屋の前で2時間待つ。
夏の太陽に焼かれながら冷たいお茶を分け合い、やっと食べる一杯に舌鼓を打つ。
「やっぱり待った分、旨いな!」
妻も娘も笑って頷いた。
(そうだ、行列に並ぶ時間が最高のスパイスなんだ)
橋田はそう信じて疑わなかった。
ある夜。
帰宅途中、街灯の下にノアが立っていた。
いつもの黒いマスクはなく、代わりに艶やかな赤味を帯びたリップが唇を彩っている。
透き通った瞳は月明かりを映し、今夜のヘアスタイルは、少年のような無造作な短髪で、どこか親しげで、しかし現実離れした印象を際立たせていた。
その異質な姿に、橋田は思わず足を止めた。
ノアは微笑むと、白い紙片をひらひらと差し出した。
「これは、順番を飛ばせる券だよ。
けれど――本当の味わいは、待つことそのものにある。
君がどう使うかは、自由だ」
声はやわらかく、どこか艶を帯びていて、胸の奥をざらつかせる不穏さがあった。
橋田は笑って首を振った。
「そんなのは邪道だよ。待って食べるのが最高なんだ」
そう言いながらも、番号札を受け取り、財布にしまった。
最初は使わなかった。
行列に並び、家族と話しながら時間を過ごす。
「お父さんってほんと待つの得意だね」
娘が笑うと、それだけで誇らしかった。
だがある日、人気スイーツ店で、隣の若者に小声で馬鹿にされた。
「わざわざ並んでるよ。時間の無駄じゃん」
胸にざらりとした痛みが走る。
(俺は……バカにされてるのか?)
思わず番号札を握りしめた。
次の瞬間、列の最前列に自分だけが進んでいた。
周囲の客が驚き、ざわめく。だが店員は当たり前のように橋田を案内した。
「……すごい。これが優先権……」
舌の上でとろけるケーキより、背後に伸びる長い行列を見下ろす快感の方が甘美だった。
それから橋田は、番号札を繰り返し使った。
どんな店でも、どんなイベントでも、彼だけが最前列に立った。
妻や娘は最初こそ喜んだが、やがて不安げに眉を寄せた。
「ねえ……これ、本当にいいの? 並ぶのが好きだったんじゃない?」
だが橋田は聞かなかった。
(優越感……これが本物の幸福だ。並ぶなんて、もう古い)
——ある昼下がりのことだった。
駅前の広場に、妙な行列ができていた。
何の看板もなく、店の姿もない。
ただ人々が静かに列を作り、前へ前へと進んでいた。
「……何の列だ?」
誰に尋ねても答えは返らない。けれど、不思議と胸がざわめき、足が勝手にその最後尾に向かっていた。
気づけば、橋田も並んでいた。
理由もわからぬまま、ただ“前へ進むこと”だけが目的のように思えた。
やがて、行列は街を離れ、どこまでも続く荒涼とした大地へと伸びていった。
前も後ろも、見知らぬ人々の背中。無言のまま、ひたすら前進する群れ。
「……ここでも、俺が最優先だ」
橋田は震える手で番号札を掲げた。
その瞬間、群衆がざわめき、まるで波が割れるように道が開いた。
橋田は胸を張り、足を進めた。
最前列へ。さらに前へ。
だが、その先に待っていたのは——底の見えない奈落だった。
橋田は気づく間もなく、一歩踏み出し、闇へと落ちていった。
無数の行列の足音だけが、延々と続いていた。
月明かりに照らされた広場の片隅。
ノアが番号札をひらひらと弄びながら、落ちていった方向を静かに見つめていた。
「行列は、人の期待を甘美に育てる。
順番を待つ喜びも、誰かと並ぶ連帯感も、本来は温かいものだ。
だが——優先されることだけに酔いしれたとき、それはただの虚ろな快感に変わる」
ノアはひとつ肩をすくめ、ふっと微笑んだ。
「……もっとも、僕だって無限に続く列なんかに並ぶ気はないけどね」
風が吹き、番号札は月光にかざされたまま、すっと闇に消えた。




