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姉妹の指輪

世界のどこかで、ふと出会うことがある。

その名はノア。人にも、影にも見える存在。

ノアはただ、ひとつの道具を差し出す。

それは憧れを叶えるかもしれないし、呪いに変わるかもしれない。

選ぶのは、受け取った者自身。

行き着く先を、ノアはただ静かに見届けている。


***



松永家は町でも名の知れた旧家だった。

石造りの洋館は緑に囲まれ、重厚なシャンデリアが夜ごときらめく。


そこに暮らすのは、美しい姉妹。


姉・美鈴は誰からも愛された。長い睫毛に透き通る肌、落ち着きと気品を備えた言葉遣い。彼女が立ち居振る舞うだけで、空間が明るくなるようだった。


妹・綾音はいつも比較された。笑顔を作れば「美鈴様には及ばない」、声を上げれば「美鈴様の方が優しい」。両親も使用人も、町の人々さえも、美鈴ばかりを讃えた。


——その歴史は幼少期から積み重ねられてきた。


幼いころ、親族が集まった茶会。

姉妹そろって同じようなドレスを着せられて座っていた。


「まあ、美鈴様は本当にお人形さんみたい」

「綾音様もかわいらしいけれど……やっぱり美鈴様ね」


笑顔を浮かべるしかなかった綾音の指先は、テーブルクロスの下で小さく震えていた。


小学校の音楽会。

美鈴が舞台でピアノを弾き、喝采を浴びる横で、綾音は譜めくり係として控えていた。

観客の誰一人として、彼女の存在に目を向けることはなかった。


(私は舞台に立つことさえ許されない……)


中学生の頃。

町の青年から「好きです」と声をかけられ、心臓が跳ねた。だがその青年の視線は、すぐ横にいた美鈴に注がれていた。


「すみません、間違えました。美鈴様に……」


軽く謝られただけで、綾音はその場に立ち尽くした。


胸の奥で、冷たい氷がじわじわと広がっていった。


高校ではさらに差が顕著になった。

学園の文化祭で美鈴はミスコンに立候補し、圧倒的な票で優勝。


拍手喝采に包まれ、花束を抱いてステージに立つ姉を見ながら、綾音は観客席で爪を噛み、机の影に身を潜めていた。


(どうして……どうして誰も私を見てくれないの……)



そして、今。


洋館に客人を招いた夜。

食卓に並ぶ料理は綾音が仕込みを手伝ったものだった。


だが「美鈴様の盛り付けは芸術的ですね」と褒められ、綾音の名は一度も出なかった。


さらに追い打ちをかけるように、別の客がこう口にした。


「妹の綾音様は、美鈴様のおかげで恵まれた暮らしを送れて、幸せですね」


その一言に、綾音の頬が強張った。

自分の努力も、存在さえも、姉の影としてしか扱われない。


胸の奥で、何かがひび割れる音がした。


その夜、鏡の前で髪を梳かしながら、綾音は歯を食いしばっていた。


「私は……美鈴の影じゃない……私だって……」


唇を噛み切りそうなほど強く噛みしめ、うつむいた瞬間だった。


ふと気配を感じて振り返ると、庭の月明かりの下に、黒いコートを纏った青年が立っていた。

中性的な顔立ち、闇を映すような瞳。

その存在は現実の輪郭から少し浮き上がって見える。


「君は、姉に縛られているね」


その声は静かに、だが心の奥底を突き刺すように響いた。


綾音は息を呑んだ。誰にも言ったことのない想いを、初めて言い当てられた気がした。


青年……ノアは、指先で小さな黒いケースを弾いた。そこから銀の指輪が取り出され、月光を浴びて妖しく輝いた。


花の模様が刻まれた指輪は、生きているかのように淡く脈打っていた。


「この指輪は、君が本当に望むものを映す。

ただ、それが祝福かどうかは……君の選び方次第だ」


ノアの声は淡く笑みを含んでいたが、底知れぬ冷たさも漂っていた。


綾音は抗うことなく、その指輪を受け取った。

中指に嵌めた瞬間、ぴたりと馴染むように締め付けられ、胸の奥が熱く震えた。


——そして、指輪がかすかに光った


数日後、事件は起こった。


それは夕暮れが深まり、洋館の灯が順にともり始めた頃だった。


バルコニーの手すりに手をかけた姉・美鈴が、不意に小さく悲鳴を上げた。


「えっ……?」


手すりがわずかに軋み、次の瞬間、乾いた音を立てて崩れた。


美鈴の瞳が大きく見開かれる。

月光を映すその瞳には、驚愕と恐怖、そして助けを求める一瞬の光が宿っていた。


「きゃああああっ!」

「お嬢様――!」


使用人たちの叫びも虚しく、白いドレスの裾がふわりと翻り、細い体が石畳に叩きつけられる鈍い衝撃音が響いた。


赤黒い染みが瞬く間に広がり、洋館の夜に不気味な彩りを添えた。


駆け寄った人々が口々に名前を呼ぶ。


「美鈴様!」「しっかりなさって!」


だが、その呼びかけに応じる声はなかった。


翌日、館には喪服に身を包んだ親族や知人が集まった。


重厚な棺に横たわる美鈴は、まるで眠るような微笑を浮かべていた。

冷たい頬に触れる者は皆、嗚咽を堪えられなかった。


松永家の名にふさわしい厳かな葬儀。

花々で飾られた祭壇の前で、町の人々は「惜しい方を」と涙ながらに言い合った。

館の大広間はすすり泣く声で満ち、重苦しい空気が誰の胸にも沈んでいった。


その最中、棺の前に膝をついた綾音は、袖で顔を覆いながら声を殺して泣いた。


だが、心の奥では得体の知れない震えが広がっていくのを止められなかった。


(これで……私が……)


その瞬間、中指にはめた銀の指輪が淡く光り、祭壇の花々の影を妖しく揺らした


葬儀から数日後。


綾音は、姉の衣装部屋に忍び込んでいた。

ドアを閉めると、そこには今も美鈴の匂いが漂っていた。

香水と花の匂い、そして絹のドレスが並ぶクローゼット。


綾音は震える手で、その中から深紅のドレスを引き出した。


美鈴が舞踏会で纏い、皆を魅了した衣装。

鏡の前でドレスに袖を通し、姉がいつもしていた口紅を唇に塗る。

髪も同じように結い上げ、宝石のイヤリングを耳にかけた。


「……どう?」


低く呟いた声は、少し震えていた。

けれど鏡に映る姿は、亡き姉をなぞるように浮かび上がっていた。


その夜、綾音はドレスをまとい、廊下に姿を現した。

喪服に身を包んでいた家族や使用人たちが一斉に振り向く。


一瞬、時間が凍った。


「……美鈴様?」


震える声が上がる。

すすり泣くような気配と共に、誰かが胸元を押さえた。


次いで、低く怒った声が響いた。


「綾音! 不謹慎な真似はやめなさい!」


父の怒声が館に響き渡る。

母も顔を覆い、使用人たちも眉をひそめ、冷ややかな視線を向けた。


その空気の重さに、綾音は一瞬足を止めかけた。


だが、その瞬間だった。

中指に嵌めた銀の指輪が、淡く光った。


光は波のように広がり、部屋の空気をわずかに揺らした。

次の瞬間、父の表情が曇りから和らぎ、母が震える声で言った。


「……やっぱり、美鈴よ。生きて……生きていたのね」


使用人たちも次々と頷き、涙を流し始める。

「奇跡だ……美鈴様が戻ってこられた……!」


綾音の胸が熱く震えた。


指輪の輝きに導かれるように、彼女の声や仕草はますます姉に似通っていく。

笑みの角度、首の傾け方、歩くときの裾の揺れ。


(そう……これで私は、美鈴。

もう誰も、綾音だなんて呼ばない……)


廊下に立つその姿は、亡き姉を完璧に模倣した“別の存在”となり、

館の人々は、ぞっとするほど自然に彼女を「美鈴」として受け入れていった。


数週間が経った。

綾音は、姉の衣装部屋からドレスを取り出し、化粧台の前に座ると当たり前のように鏡に向かっていた。


姉の紅を唇に引き、姉の香水を首筋に吹きかけ、姉の髪飾りをそっと差す。


ぎこちない所作は、指輪が淡く光るたびにするりと自然なものへと変わっていった。


リビングでは、使用人が紅茶を差し出す。

彼らは一瞬眉をひそめる。


紅茶を受け取る手はどこか不器用で、微笑の角度がわずかに不自然。


だが次の瞬間には、まるで記憶が塗り替えられるように表情を改め、深々と頭を下げる。


「どうぞ、美鈴様」


綾音の胸は甘美な誇りで満たされた。


(そうよ、私は美鈴。みんなの美鈴なんだ……)


家族も同じだった。

食卓で姉の口癖を真似すれば、最初は父が怪訝な顔をした。

だが姉が好きだった葡萄酒を傾けると、母が微笑んで「やっぱり美鈴ね」と呟いた。


その場に流れる空気は明らかに異様だった。


誰もが「違和感」を抱いたはずなのに、誰一人それを口にしない。

それどころか、綾音を美鈴として扱うことに、次第に酔いしれていくようだった。


綾音は庭のベンチで日記帳を開き、姉の筆跡を真似て文字を綴った。


「今日も穏やかな日。家族と共に笑い合った。私は幸せ」


その字を見つめると、不思議なほど涙が溢れた。


(そう……これでいいの。私が、美鈴になればいいの)



やがて、姉の恋人・篠原が館を訪れた。

高身長で誠実そうな青年。

その眼差しは、綾音にとって唯一手に入らなかった温もりだった。


「美鈴……生きていてくれて良かった」


震える声で抱き寄せられたとき、綾音の心は狂おしいほどに歓喜した。

月明かりに照らされ、指輪が鮮烈に光る。


(これで完全に、私はお姉様になったんだ……!)


篠原は涙ぐむように彼女を抱きしめ、その胸に顔をうずめた。

綾音はぎこちなく背に腕を回しながらも、頬を赤く染め、微笑を浮かべた。


彼の吐息、衣服の香り、腕の温かさ……すべてがこれまで夢に見てきた「美鈴の恋人」を独占できる証だった。


それからの数日、館の一室は甘い時間に包まれた。


篠原は「美鈴」と信じて疑わず、夕暮れのバルコニーで彼女の肩を抱き、未来を語った。

綾音はうなずきながらも、そのたびに妙に大げさに微笑んだ。


唇を引き上げる角度、声の抑揚――すべてが稽古場の役者のように整いすぎていて、不自然なほどだった。


(私が……この館の主の娘であり、そして彼の恋人……世界は全部、私のものになったのよ)


部屋の中、姉が使っていたドレッサーの前で篠原に髪を梳かされる時間さえあった。

櫛が髪を滑るたびに、綾音は「美鈴」としての返事を忘れまいと、かすかに震える声で「ええ」「そうね」と繰り返した。


鏡の奥に映るのは、姉そっくりの笑み……だが、瞳の奥にはぎらついた焦燥が潜んでいた。


指輪はそのたび妖しく光り、まるで「続けろ」と囁いているかのようだった。


夜、姉が大切にしていたベッドに二人で横になるときも、篠原は「美鈴」と呼びかけ、綾音を抱きしめた。


その腕の温もりの中で、綾音は目を閉じ、胸の奥で勝ち誇るように呟いた。


(見てる? 美鈴お姉様。あなたの恋人も、未来も、すべては今、私のものなのよ)


彼女の吐息は甘美な恍惚に震えていたが、その指先は白く強張り、爪がシーツに深く食い込んでいた。


館の重厚な壁に囲まれたその生活は、夢のように甘く、しかしどこか歪で、虚ろな狂気に支配されていった。



夜。洋館のベッドルーム。

カーテンの隙間から月の光が差し込み、白いシーツの上に二人の影を落としていた。


綾音は姉の衣装を纏ったまま、篠原の胸に身を預けていた。

甘い吐息と低い鼓動が耳に届く。

そのひとときは、まるで夢の続きだった。


しかし、篠原の声は突然、奇妙に震え出した。


「……あの日のことを、忘れられない」


綾音は目を瞬いた。

篠原は天井を見つめ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「美鈴は死んだ……あの夜、確かに死んだ。だけど、その瞬間に、彼女は永遠の美しさを得たんだ。

死によって、誰にも触れられない、穢されない“理想”になったんだ。

俺は……その美鈴を、心の底から愛している」


次の瞬間、篠原ははっとして綾音を見つめた。


「……じゃあ……今、俺の隣にいるお前は……誰なんだ?」


静まり返る室内。


綾音の喉がひゅっと鳴った。胸の奥で指輪が熱を帯びる。


(……気づかれた? 偽物だって……?)


震える声で、綾音は必死に笑みを作った。


「私は……美鈴よ」


だが篠原の瞳は狂気に染まり、嗤うように震えた。


「そうだ……お前は美鈴だ。俺の愛した、美鈴そのものだ」


綾音は一瞬安堵しかける。

だが次の言葉に血の気が引いた。


「だからこそ、生きていてはいけない!

本当の美鈴は、あの夜に完成したんだ。死によって、永遠になったんだ!

今こうして生きているお前は……永遠を汚す存在なんだ!」


ワイングラスがベッドサイドから振り下ろされ、床に叩きつけられる。

ガシャン! 赤い液体が絨毯に広がり、まるで血の池のように染み込んでいった。


「証明しろ……本物なら、ここで死ね。

死んで永遠を手に入れろ!」


篠原は机にあった果物ナイフを握り、ぎらりと月光に光らせた。


「いや……いやぁ!」


綾音は枕を掴んで篠原に投げつけた。

鈍い音を立てて顔に当たるが、彼は怯むどころか恍惚の笑みを浮かべる。


「抵抗するのか……余計に怪しいな」

にやけた唇から、唾が飛んだ。


綾音は震える手で書斎の本を取り上げ、次々と投げつける。

ドスッ、バサッ!

重たい背表紙が肩や腕を打ち、篠原は一瞬呻いたが、その足は止まらない。


「お前が生きているせいで……美鈴の永遠が壊れるんだ!」


ナイフを掲げた影が、月光に揺れた。


「違う! 私は妹……綾音よ!」

声が裏返り、涙が頬を濡らす。


篠原の顔は歪み、笑みとも怒りともつかぬ凄絶な表情になった。


「妹だと? そんな存在は幻だ! お前は美鈴だ! 美鈴でなければならない!」


「信じて……お願い!」


綾音は化粧台にあった香水瓶を掴み、力任せに篠原の胸へ叩きつけた。

ガシャッ!

ガラスが割れ、甘ったるい香りが部屋中に充満する。

飛び散った液体が篠原の頬にかかり、光沢を帯びて滴り落ちた。


しかし彼は狂気のまま目を見開き、ナイフを握る手にさらに力を込めた。


「お前は俺を騙してるんだ……その顔も声も、全部偽物だ!」


追い詰められ、背中が冷たい壁にぶつかる。心臓の鼓動が、破裂しそうな音で耳を支配する。


(このままじゃ……殺される……!)


「違う……違うの……!」


嗚咽混じりに叫び、髪を振り乱す。


「私は……あの夜、手すりを緩めた!

美鈴を殺したのは……私! この私なの!」



空気が凍りついた。



篠原の目が大きく見開かれ、全身が石のように固まる。


「……お前が、美鈴を……殺した……?」


低く震える声。やがてその表情が爆ぜるように怒りに染まった。

頬が真っ赤に火照り、血管が浮き出る。


「化け物めえええッ!」


怒号とともに、ナイフが月光を裂いて振り下ろされた。


綾音は最後まで両手を伸ばし、必死に宙を掴もうとした。

「助けて……!」


その声は夜気にかき消され、次の瞬間、白いシーツに鮮血が大輪の花のように咲いた。


床に転がった指輪が、一際強く光を放ち、やがて鈍い灰色へと沈んでいった。



月明かりに照らされた洋館の前。

ノアは血に濡れた指輪を拾い上げ、門の端の石塀の上に静かに置いた。


「憧れは、人を美しくもする。

だが、なりかわろうとしたとき……それは愛ではなく、呪いになる」


淡く笑みを残し、ノアは夜の闇に消えていった。


翌朝。

掃除に出た使用人がその指輪を見つけ、怪訝そうに手に取った。

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