虚像のペンライト
世界のどこかで、ふと出会うことがある。
その名はノア。人にも、妖精にも見える存在。
ノアはただ、あなたにひとつの道具を差し出すだけ。
それをどう使うかは、あなた次第。
行き着く先を、ノアは静かに見届けている。
***
杉山誠五、五十二歳。
会社では空気のような存在。新しい上司に押しやられ、発言の機会もなくなった。
家に帰っても妻とは会話がなく、子どもたちは相手にしてくれない。
テレビをつけても、静まり返った部屋に虚ろな笑い声が響くだけだった。
(俺の人生って、なんだったんだろうな……)
そんなある晩、仕事帰りに通りかかった商店街の広場で、若い女性の歌声が耳に届いた。
スポットライト代わりの街灯の下、小さなステージで歌っていたのは、駆け出しのアイドルグループ。
その中でひときわ輝いて見えたのは、まだ十代と思しき少女だった。
彼女の笑顔は真っ直ぐで、目が合った瞬間、杉山の胸を撃ち抜いた。
誰にも必要とされない自分を、まるで肯定してくれるような光だった。
「もっと近くで見たい……」と、おもわず呟いた瞬間、背後から、低い声がした。
「その想いを、形にしてみない?」
振り返った瞬間、杉山は息を呑んだ。
街灯に浮かび上がったのは黒いマスクをつけた青年。
中性的で整った顔立ちに、長い睫毛、白い肌。
同性であるはずなのに、一瞬、アイドルに見惚れてしまった。
舞台に立つ者のような輝きと、妖精じみた冷ややかな気配が同居している。
ノアは手に一本のペンライトを握っていた。
「これを振れば、彼女の目は必ず君を見てくれるよ。ただし——どう使うかは君次第」
震える手で、その光を杉山は受け取った。
翌週のライブ。
ペンライトを掲げると、ステージ上の彼女が真っ直ぐに杉山を見つめた。
「ありがとう」——唇がそう動いた。
心臓が跳ねた。
(俺に……俺に言ってくれたんだ!)
その日から杉山は生まれ変わったようだった。
職場でも少しずつ明るさを取り戻し、同僚に驚かれた。
家でも久々に子どもと会話をし、妻もわずかに笑顔を見せた。
彼女の存在が、自分に張りを与えてくれたのだ。
だが幸福はやがて欲望に変わった。
「もっと応援しなければ、彼女は自分を見なくなる」
その思いに駆られ、杉山はライブに通い続けた。
グッズを買い漁り、チェキを集め、地方遠征にも出かけた。
あっという間に給料は消え、借金が膨らみ、家計は崩壊した。
妻は荷物をまとめて去り、子どもたちは音信不通になった。
職場でも孤立し、冷たい視線を浴びた。
それでも……杉山はやめられなかった。
深夜の薄暗い部屋で、一人きりでペンライトを振り続ける姿は滑稽で、哀れで、そしてどこか狂気を帯びていた。
額には汗が滲み、目はぎらつき、頬はこけていた。
「ありがとう!」「大好きだ!」
彼女の映像を繰り返し再生し、画面に向かって叫びながら、空気を切るように腕を振り続ける。
近隣住民からの苦情が届いても、彼の耳には届かない。
「俺は選ばれたんだ……彼女は俺を見てるんだ……」
その言葉を呟く唇は乾ききり、笑みはひきつっていた。
泣き疲れても、腕は止まらない。
ペンライトを振る動作が、もはや呼吸と同じになっていた。
ある日、シークレットライブの当選通知が届いた。
「やっと……報われるんだ」
胸を震わせ、杉山は会場へ向かった。
だがそこは異様な空間だった。
観客は誰もいない。
無数のペンライトだけが宙に漂い、青白い光が闇を揺らしていた。
ステージの中央に彼女が立つ。
「ありがとう」
笑顔は不自然に張り付き、声は濁っていく。
「ちょうだい」
「もっとちょうだい」
無機質な言葉の繰り返しが、ホールに反響した。
杉山は必死にペンライトを振り続ける。
財布を掴み、中身をばら撒く。
だが床に舞ったのは紙幣ではなく、ただの白い紙片。
「もっと」「もっと」
叫びは絶叫に変わり、ペンライトの光が渦を巻く。
やがて杉山の影は揺らぎ、吸い込まれるように光の中へ消えていった。
気がつけば、会場は暗闇だった。
ステージには無表情の偶像だけが立ち、口を機械のように動かしている。
「ありがとう」
「ありがとう」
言葉は虚ろに反響し続ける。
最後列にノアが現れ、月明かりに照らされながら静かに呟いた。
「本当は、少し楽しむだけでよかったのに。
欲を出してすべてを捧げたから……残ったのは、空虚な偶像だけだ」
その声は、誰もいないホールにいつまでも木霊していた。




