祈りのスコアブック
願いは、時に奇跡を呼ぶ。
けれどその奇跡は、代償なしには訪れない。
君が差し出すものは……本当に守りたい心だろうか。
ノアは今日も道具を差し出す。
***
美咲は高校2年生。
小さな頃から一緒に育ってきたキャプテン・大地に恋をしていた。
泥だらけで練習する彼にタオルを渡すとき。
スコアブックに彼の名前を書き込むとき。
胸が熱く、こっそり震えた。
(大地くん……最後の夏、絶対に笑ってほしい。できれば、その隣にいたい)
けれど告白する勇気は出なかった。
彼はチームの中心。自分はただのマネージャー。
支えることが、せめてもの愛の形だった。
大会直前の夕暮れ。
グラウンド整備をする美咲の前に、ノアが現れた。
街灯の逆光に立つ中性的な青年。穏やかに微笑む。
「君にこれを渡そう」
差し出されたのは、新品のスコアブック。
白紙のページは脈打つように温かかった。
「心からの願いを書き込めば、その通りになる。
ただし……、その願いに込めた恋心は次第に消えてしまう」
ノアはさらりと告げ、姿を消した。
残された美咲は、鼓動の速さを抑えきれなかった。
(……もし、本当だったら?)
スコアブックに「勝つ」と書いた試合、チームは本当に勝った。
奇跡のような連携、つながる打線。
仲間たちは「努力の成果だ!」と歓喜した。
美咲は胸を痛めた。
(これは……私が書いたから? でも……みんなが笑ってるなら、それでいいの?)
ページの隅には小さな光が揺れ、《代償:恋心の消失》と刻まれていた。
美咲は目を逸らし、ページを閉じた。
そして開くことは無くなった。
決勝。九回裏、二死満塁。
相手の四番が放った打球は、センター頭上を越える大飛球。
観客席から悲鳴が響き、美咲の胸も潰れそうに震えた。
その瞬間——大地のスパイクが裂けるのを、美咲だけが見た。
(だめだ……! このままじゃ届かない!)
涙で滲む視界の中、美咲は震える手でスコアブックを開いた。
最後の一行に、必死の祈りを刻む。
《大地が奇跡のキャッチをして、チームが優勝する》
書き終えた瞬間、胸の奥で何かが砕け落ちた。
熱を帯びていた恋心が、静かに色を失っていく。
グラウンドでは、大地が古いスパイクを履いて走り出していた。
泥を蹴り、練習で培った「カットステップ」が自然に体を導く。
最後の一歩、全身を投げ出すようにして白球をキャッチ。
「アウトォォォ!!!」
審判の声に、球場全体が歓声に揺れた。
北ヶ丘高校、初の優勝。
仲間たちが抱き合い泣き崩れる中、美咲は立ち上がった。
声をあげようとしたが、胸の奥が空っぽで声が出なかった。
隣のマネージャーが笑顔で言った。
「美咲、大地君のこと好きなんでしょ? 叶ってよかったね!」
美咲は戸惑い、首を傾げた。
「……そうだったかな。わからない」
頬を伝う涙。
それは恋の喜びではなく、理由のわからない喪失の涙だった。
観客席の隅でノアが呟く。
「奇跡なんてない。
ただ努力を信じられるかどうか、
それこそが、人間に与えられた本当の栄光なんだ。
……もっとも、その努力を支えた祈りが、代償を払っていたとしても」
美咲はスコアブックを胸に抱き、大地の姿を見つめた。
歓声に包まれたグラウンドで、彼が笑うのを見ながら、
(どうしてこんなに涙が出るんだろう……)
小さく呟いた。




