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最強エプロン

人は、愛する者のために努力する。

けれど「完璧さ」を追い求めすぎたとき、その努力は愛を守るどころか、愛を削り取る刃に変わる。ノアは今日も、そっとアイテムを差し出す。



***



松井真理子、三十二歳。

夫の健一、九歳の息子・悠人、五歳の娘・花。


真理子は心から家族を愛していた。

朝五時に起き、朝ごはんとお弁当を用意する。水筒の氷の大きさまで気を配り、夫のシャツには丁寧にアイロンをかける。


けれど、どんなに頑張っても「完璧」には届かなかった。


昨日は息子の水泳教室の水着を洗い忘れ、朝からドライヤーで乾かしてもまだ湿っていた。


先週は娘の遠足におやつを入れ忘れ、「恥ずかしかった」と泣かせてしまった。


夫は夕食の席でぽつりと「少し味が濃いな」と言っただけ。


それだけで胸がきゅっと締め付けられる。


(私はいい母でいたい。いい妻でいたいのに、どうしていつも失敗してしまうの)


疲れた顔で取り込み忘れた洗濯物を取り外していたある夜、庭の先の街灯の下にひとりの青年が立っていた。

黒いマスク、中性的な顔立ち、現実から切り離されたような瞳。ノアだった。


「君は頑張ってる。でも失敗が怖いんだろう?」


真理子は洗濯ばさみを取り落とし、震える声で答える。


「……私は、家族に完璧でいたいの」


ノアは微笑み、真っ白なエプロンを差し出した。


「このエプロンを身につければ“理想の妻”になれる。家事も育児もすべて完璧にできるよ」


真理子は迷わずそれを胸に抱き、翌朝から身につけた。


不思議なほど頭が冴える。


時計を見なくても時間配分が分かり、フライパンの温度も、調味料の分量も、洗濯物の干し方も理想通り。


子どもの忘れ物はゼロ。宿題のチェックも完璧。


夫の好みに合わせた味付けも絶妙だった。

健一は驚き「すごいな、真理子」と感嘆し、子どもたちも「ママ、天才だね!」と拍手した。


真理子は胸を熱くし、涙を浮かべる。


(やっと……やっと理想の母になれたんだ)



だが日が経つごとに、家族の笑顔はぎこちなくなっていった。


悠人が少し鉛筆を持つ角度を間違えれば、すぐに真理子の手が伸びる。

花が靴下を片方履き忘れれば、「だめでしょ」と瞬時に直される。


夫が疲れた表情を見せれば、完璧な夕食、完璧なマッサージ、完璧な労いの言葉が浴びせられた。


健一は笑うことをやめ、胸の奥で呟いた。

(家に帰ってきても休まらない。会社より、妻の前にいる方が息苦しい……)



ある夜のリビング。

真理子はフライ返しを軍人の教官のように手でパシパシ叩きながら、部屋を巡回していた。


「悠人、宿題は終わった?」「はい!」


「花、歯は磨いた?」「はい!」


返事の声が少しでも遅れると、「もっと大きな声で!すぐに行動!」と鋭く命じる。


目は焦点が合わず、笑顔の形だけを張り付けたまま。


健一に向かっては「今日も任務ご苦労さま。明日も全力で遂行してね」とまるで部下を労うかのように言う。


家族の目には、それは愛情ではなく命令に映った。恐怖が、家を満たしていった。



真理子自身も時折ふと思い出した。

歯磨き粉をチューブごと握りつぶして大騒ぎになった悠人の顔。


壁に落書きをして「ごめんなさい」と泣いた花の小さな肩。


髭を剃り忘れて出勤し、同僚に笑われた健一の苦笑。


それらは全部不完全で、不格好で、けれど愛おしい日々だった。

涙がこぼれる。


(あの頃は失敗があったから、笑って抱きしめられたんだ……)


だがエプロンを脱ぐことはできなかった。



数週間後、リビングは雑誌の写真のように整えられていた。

机の上には置き手紙が二枚。


「ママ、ちょっと怖い。だから出ていきます」悠人の字。


「ごめん、もう一緒に暮らせない」健一の字。


玄関は開け放たれ、花の小さな靴も夫の革靴も消えていた。


真理子は白いエプロンの裾を握りしめ、崩れ落ちた。


「どうして……私、こんなに頑張ったのに……」



それでも彼女は動きを止めなかった。涙を流しながら、さらに床を磨き、窓を拭き、料理を整える。家族がいつでも戻れるように、最高の家を用意しようとする。


誰もいないリビングに「はい!」という返事を求め、見えない家族に「任務を果たして」と呼びかける。


狂気じみた笑顔を浮かべながら、真理子は止まらなかった。


路地裏から家を見上げていたノアは、小さな欠けたスプーンを指で弄びながら呟いた。


「完璧さは美しい。でも、温もりは不完全さの中でしか育たない。

彼女は愛する人を守ろうとして、その不完全さを削り落とし、自らを孤独に閉じ込めたんだ」


スプーンをポケットにしまい、ノアは背を向けた。


窓の奥で白いエプロンだけがなおも輝いていた。


けれど、その光に寄り添う人影は、もうどこにもなかった。


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