美少年と恋の鏡
人は、恋に理由を求めない。
だが、その矛先が常識から外れたとき、愛は祝福ではなく歪みになる。
ノアは今日も、そっとアイテムを差し出す。
***
放課後の商店街。
制服の襟を少し緩め、坂本遥介(17歳)は、古びた本屋へと足を運んだ。
湿った紙と背表紙の埃の匂い。
その空気に包まれると、彼の心は不思議と静かになった。
レジに座っているのは、店主の三浦(45歳)。
少し小太りの体型に、黄ばんだワイシャツ。
髭は剃り残し、油で分け目がべったり固まった髪。
無意識に鼻をほじり、その指先を口元へ運んでしまう癖さえある……
まさに「キモいおじさん」と呼ばれても仕方ない姿。
だが遥介の目には、その全てが愛おしかった。
低く柔らかい声が、胸の奥深くを震わせる。
「いらっしゃい」
ただその一言だけで、世界が満たされるように思えた。
同級生の女子に抱く淡い憧れではない。
もっと熱く、もっと生々しく、欲望を孕んだ感情。
(ああ……僕は、この人が好きなんだ)
美しい頬のきめ細かい肌。
少年らしい輪郭に浮かび始めた凛々しさ。
鏡に映しても見劣りしないその美貌は、若さそのもののきらめきに包まれていた。
その鮮烈な美と、三浦のくたびれた姿とのコントラストが、遥介の恋情をさらに煽り立てた。
夕暮れ。
本屋を出ようとした遥介の前に、ひっそりとノアが立っていた。
中性的で美しい顔立ち。
黒いマスクの下で微笑み、手には小さな手鏡を持っている。
「言葉にできない想いは、鏡に映せばいい。
これを使えば、相手に“本当の気持ち”を伝えられるよ」
銀の縁の鏡。
覗き込むと、自分の顔がひどく赤らみ、恋の熱そのものを映し出していた。
遥介は迷うことなくそれを受け取り、胸に押し当てた。
夜。
客のいない本屋の静寂に、蛍光灯の白が滲む。
「もう閉める時間だよ」
三浦の声。
遥介は震える手で鏡を取り出し、差し出した。
「僕の気持ち……見てほしいんです」
光が瞬き、三浦の目に、遥介の心の中が流れ込む。
——手を繋ぎたい。抱きしめたい。
——ベッドに並んで眠りたい。
——目を閉じて、唇を重ねたい。
——さらに、その先へ……。
若さゆえの欲望は、あまりにも赤裸々で、直視できないほど生々しかった。
三浦の顔が恐怖で歪む。
「やめろ……!」
遥介は必死に叫ぶ。
「僕は本気なんです! どうして逃げるんですか!」
三浦は息を荒げ、鏡を振り払うようにして奥へ駆け込んだ。
重たい扉が閉まる音が、遥介の胸を裂いた。
外に出ると、雨上がりのアスファルトが鈍く光っていた。
街のネオンが滲み、車のライトが歪んで揺れる。
遥介の頬を伝う涙は、風に乾く間もなく溢れ続ける。
(どうして……どうして僕を拒むの……?
僕はこんなに真剣なのに……)
ふらつく足で歩き、夜のざわめきに飲み込まれていった。
雑居ビルの階段を上ると、赤いランプの灯り。
ドアには手書きの落書き。
《おじさん好き歓迎》
胸が高鳴り、足は止まらなかった。
ドアを開けた瞬間、ねっとりとした空気が絡みつく。
タバコと汗と安い香水。
暗がりの中、無数の「おじさん」が振り向いた。
黄ばんだシャツ、油ぎった額、伸びすぎた爪。
にやけた口元から、濁った笑い声。
飢えた獣のように、いやらしく遥介を舐め回す視線。
「ようこそ」
「待ってたよ」
その言葉は湿ったカビのように重く、逃げ場を塞ぐ。
彼らの眼差しに晒されるほど、遥介の白い肌と整った顔立ちは際立って美しく輝いた。
華奢な肩の線。
首筋の青白い血管。
まだ少年のあどけなさを残す微笑み。
彼らは、それを「これから侵食できるもの」として見つめていた。
だが、遥介は微笑んだ。
瞳を潤ませ、唇をわずかに震わせながら。
(ここなら……僕を求めてくれる……!)
黄ばんだ歯を見せる笑みが迫り、毛の生えた指が肩に伸びる。
悪臭の混じった吐息が首筋に触れる。
汚濁の渦が押し寄せる中、遥介の胸には、鮮烈な喜びの花火が打ち上がっていた。
誰からも拒まれず、誰からも求められる錯覚。
その熱に酔いながら、彼は自らを差し出した。
翌朝の商店街。
掲示板には、新しいポスター。
《行方不明:高校生・坂本遥介》
本屋の前で、三浦が立ち尽くしていた。
悔恨と恐怖に揺れるその表情。
足元には、割れた手鏡が落ちていた。
遠くの路地でノアがそれを拾い上げ、指先で光をすくうように見つめる。
「愛に形はなく、季節も年輪も、性も境界も越えて芽吹くもの。
彼が求めたのもまた……ひとつの愛のかたち。
たとえ行き着いた先が歪みであったとしても……
それでも彼は、愛に触れ、愛に呑まれ、愛に生きた。
それを間違いだと告げる声など、どこにもない」
ノアの瞳が細く揺れ、微かな笑みを残して消えた。
朝の光が商店街を包み、残された静けさだけが答えだった。




