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栄養の秤

人は、健康を求める。

それは身を守るための知恵。

だが、数字に縛られすぎたとき、健康は生を輝かせる力ではなく、生を削る鎖に変わる。

ノアは今日も、そっとアイテムを差し出す。


***


松田宏樹は30代の会社員。

筋肉質で精悍な顔立ちだが、その目は常に数字を追っていた。


朝、会社に来る前からスマホを睨み、アプリで摂取カロリーと消費カロリーの差を確認。


昼休み、会議室の隅でコンビニ弁当を開くと、小さな秤を取り出し、ご飯を一粒ずつ載せて重さを記録する。


同僚たちは遠巻きに囁く。


「……またやってるよ」

「病気じゃないのか」


本人は気づかない。

ただ、小声で呟く。


「糖質は毒だ。敵だ」


夜は帰宅後、自作弁当の具材を秤で計量し、PFCバランスをメモ帳にびっしりと記録する。

肉や魚の切れ端はすべてグラム単位で把握しなければ気が済まなかった。


(完璧な数値で生きれば、絶対に健康になれる)


それが彼の信念であり、呪いでもあった。



ある夜。

コンビニ帰りにふと立ち止まると、街灯の下に黒い影があった。


黒いマスクをつけた若い青年。

白衣をまとった栄養士のようにも、ジムのトレーナーのようにも見える。


中性的な美貌に、現実感の薄い、吸い込まれるような瞳。


「君は、もう正確さを知りたいんだろう?」


声は優しく、それでいて甘美に響いた。

宏樹が目を瞬かせる間に、青年、ノアは銀色のペンダントを差し出していた。


栄養秤を模した小さな飾り。


「食べ物に触れるだけで、正確な数値が分かる。完璧なバランスを手に入れられる」


宏樹の胸に、熱が込み上げた。


「……完璧……」


彼は吸い寄せられるように、それを受け取り、首にかけた。



翌日から、世界は一変した。


唐揚げは真っ赤に染まり、脂質過多を警告する炎のように揺らめく。


白飯は濁った黒い靄をまとい、過剰な糖質を告げる。

ステーキは黄金色に輝き、理想的なPFCバランスを示していた。


宏樹は興奮し、同僚の皿に手を伸ばした。

「これは不健康だ! 食うな!」

周囲の笑顔は凍りつき、彼は孤立していった。


それでも構わなかった。


(俺だけが“正しい食事”を知っている。俺だけが健康だ)



ある夜、居酒屋で。

会話の拍子に、宏樹は無意識にパンを口へ運んでしまった。


瞬間、数字が脳裏に突き刺さる。


(糖質36g。消費に必要なランニング距離……28km)


「走らなきゃ……走らなきゃ……!」


宏樹は椅子を蹴って立ち上がり、夜の街へ飛び出した。



その日を境に、彼の行動は狂気を帯びていった。


会社には来なくなり、公園で汗だくになりながら独り言を繰り返す。


「タンパク質は足りてる……でもビタミンが不足……」


スーパーに駆け込み、キウイを両手で抱え、むさぼり食う。


「次はイチゴだ! 抗酸化だ!」


胃が悲鳴を上げても、震える手で果物を押し込む。


やがて夜の街を、裸足で走り続けるようになった。


靴底はすり減り、足裏から血が滴る。

それでも止まらない。


「消費して……補給して……また消費……!」


頭上に数字がネオンのように瞬き、消費カロリーのバーが明滅していた。


周囲の視線も、スマホを向ける人々の囁きも、届かない。


(糖質12g → ランニング9km

ビタミンC不足 → キウイ2個

脂質過剰 → スクワット200回)


数字は命令となり、宏樹を鞭打った。



深夜。

街灯の下で、宏樹は腕立て伏せを繰り返していた。


泥にまみれ、よだれを垂らし、顔は涙と汗でぐちゃぐちゃだ。

それでも笑っていた。


「これで……完璧だ……俺は……完璧なんだ……!」


瞳は生気を失い、数字の幻だけを追っていた。

それでも胸は上下し、肺は苦しげに空気を吸い込んでいた。


生きてはいる。

けれど、その姿はもはや人間というより、数字に操られる影だった。



少し離れたベンチに、ノアが腰かけていた。

手に持つのは、チョコレート味のプロテインバー。


包み紙の裏には「糖質25g」「甘美な後悔20g」と印字されている。


ノアは数字など気にも留めず、ひとかじりした。

甘い香りを楽しみながら、スクワットを軽くこなす。


「健康を求める心は尊い。

 でも、数字に取り憑かれたとき、それは生を削る呪いになるんだ」


街灯に照らされたノアの頬は冷たく反射し、

足元の宏樹の影は、数字の幻に飲み込まれるように揺らめいていた。


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