終焉のメロディー《天野リラ 後編》
世界の頂点に立った歌姫、天野リラ。
スタジアムの熱狂は続いていたが、楽屋に戻った彼女はノートを前にペンを止めていた。
白紙。
真っ白なページに、影のような沈黙が広がっている。
(何も……出てこない)
若い頃は、歌詞が泉のように溢れ出た。
今はただ、虚無。
鏡に映る自分の顔には、わずかに刻まれた皺。
それ以上に、自分の内側の枯渇を見せつけられるようで、胸が痛んだ。
その夜。
リラは街外れのジャズバーにいた。
重たいカーテン、薄暗い照明、グラス越しに揺れる琥珀色のウイスキー。
成功者も失敗者も、ここではただの客に過ぎない。
隣の席に、静かに腰掛ける男がいた。
銀髪が混じった髪を後ろに撫でつけ、上質な黒いスーツに身を包んでいる。
派手さはないが、その落ち着きは場違いなほどに際立っていた。
彼は微笑んだ。
しかし、その笑みは目に届かない。
「リラ。君はまだ歌いたいんだろう?」
リラは思わず息を呑む。
名前を呼ばれたことに驚くよりも、声が妙に自然に耳に馴染むことに怯えた。
「……あなたは?」
「私はクラウン。そう呼ばれている」
彼はグラスを軽く揺らし、静かにテーブルに一本の万年筆を置いた。
金色に輝くそれは、場の空気を支配するかのように存在感を放っていた。
「これで書けば、言葉は泉のように溢れる。
世界中が、再び君の歌に跪く」
リラは震える手で万年筆を握った。
次の瞬間、頭の奥に次々とフレーズが流れ込んでくる。
孤独、愛、死、生まれる意味。
まるで誰かに囁かれるように、言葉が勝手に手を走らせた。
ノートは瞬く間に埋まっていく。
(これは……すごい……!)
彼女は涙を流しながら書き続けた。
数時間後、完成した新曲を見つめ、震える声で呟いた。
「これなら……これなら、また歌える……!」
新アルバムは世界的ヒット。
発売初週で歴史的な売り上げを記録し、批評家は絶賛。
「人類の魂に触れる歌詞」
「時代を超える芸術」
スタジアムは再び満員。
観客は歌い出した瞬間に涙し、叫び、崇拝のような熱狂が広がった。
だが、その歌詞は徐々に変わっていった。
「死」「終焉」「崩壊」
病的で暗い言葉が並び、聴く者の心に不安を植えつけた。
ファンは「怖いけれど美しい」と震えながらも、目を逸らせなかった。
(これは私の言葉じゃない……でも、誰もが求めている)
リラは恐怖と快感の狭間で揺れ動いていた。
世界同時配信ライブ。
地球のあらゆる場所で、人々がスマホやテレビの前に集まった。
リラが新曲を歌い始める。
その言葉はもはや歌ではなく、呪文のようだった。
観客の中で、泣き叫ぶ者、笑い狂う者、失神する者が続出。
映像を見ていた世界中の人々も同じように狂気に侵されていく。
リラ自身も喉を裂くほど歌い続け、声が枯れても、体が震えても止められなかった。
(やめたい……でも、止まらない……!)
万年筆が手から滑り落ち、舞台に転がる。
赤黒いインクが血のように広がり、ステージを染めた。
リラは崩れ落ち、ライトに照らされながら微笑んだまま動かなくなった。
翌日のニュースは「伝説の歌姫、ステージ上で急死」と報じた。
世界は涙し、彼女の最後の歌を「神の遺言」と崇めた。
だが、その歌詞原稿には意味をなさない文字の羅列と黒い染みしか残っていなかった。
……どこかの都市。
静かなラウンジで、クラウンがウイスキーを傾けていた。
窓の外では、別の国で詩人が狂気に陥り、また別の国で小説家が意味不明な大作を書き続けている。
クラウンは笑みを浮かべた。
その目は冷たく、銀髪が光を反射して揺れる。
「人は破滅に惹かれる。
壊れていく姿こそ、最高の芸術だ」
遠くから、その姿を見つめるノアが呟いた。
「クラウン……君の狙いは、世界そのものか」
クラウンは視線をこちらに向け、グラスを掲げ、不気味に笑った。




