奇跡の歌姫《天野リラ 前編》
世界のどこかで、ふと出会うことがある。
その名はノア。人にも、妖精にも見える存在。
だが、アイテムを与えるのはノアだけではない。
人々は、それぞれの欲望の形に応じた道具を、時に思いがけない手から受け取るのだ。
***
夜空を切り裂くような歓声が、スタジアムを揺らしていた。
数万人のペンライトが光の海をつくり、その中心に立つのは天野リラ。
「次の曲、聴いてください——」
彼女がマイクを掲げると、空気が一瞬で張りつめた。
歌声が響いた瞬間、観客は泣き、笑い、抱き合い、全身でその音を受け止めた。
「奇跡の歌姫」
「この時代の象徴」
世界がそう呼ぶ女性。
しかし、彼女の心の奥には、不安の影が差していた。
(次の歌詞が、もう浮かばない……)
十数年前。
リラは小さなワンルームで、ギターを抱えていた。
スマホを立てて配信をしても、コメントはゼロ。
画面に映る自分の姿が、誰よりも惨めに見えた。
(誰も、私を必要としてないの……?)
寂しさに押し潰されそうになった夜。
机の上に置かれたスマホケースが目に入った。
「このスマホケースを使えば、いいねの波が押し寄せる」と書かれたメモが貼り付けてある。
見覚えもないそのスマホケースを自分のスマホに被せてみるなんて、今になって思うと何か不思議な力が働いていたのかもしれない。
そのスマホケースを付けて投稿したライブの切り抜き動画。
画面に「いいね」が次々と押され、数字が爆発的に伸びていった。
胸が温かくなり、孤独が埋まっていくようだった。
だが、コメント欄に流れる言葉は「かわいい!」「最高!」ばかり。
リラの大切にしている歌詞をに触れるコメントはなかった。
「……違う」
リラはケースを外し、ノートを広げた。
涙でにじんだ文字を、必死に書き連ねる。
幼い頃の孤独、誰にも言えなかった怒り、愛への渇望……血のように赤裸々な言葉。
(私は、かわいいじゃなくて、詩を聴いてほしい)
その夜、彼女はケースを閉じたまま、震える声で歌い続けた。
しかし、寂しい夜にだけは、ケースを取り出した。
そのたびに一時的なバズが起き、彼女の歌は多くの人の目に触れた。
リラは一時的に満たされるとすぐに、ケースを外すことにしていた。
そして、SNSを見ている人達も、ケースを外したときの、むき出しの歌詞に心を動かされた。
やがてSNSで「この子の歌詞がすごい」と拡散され、フォロワーが急増する。
ファンが「#リラの歌に救われた」とタグをつけ、口コミは止まらなくなった。
小さなライブハウスは満員。
最前列で涙を流す観客を見て、リラは震えた。
(伝わってる……本当に、伝わってるんだ)
メディアが取り上げ、テレビ番組に呼ばれる。
ぎこちないトークでも、歌えば空気が変わった。
批評家は「言葉が生きている」と絶賛。
全国ツアー、海外フェス。
英語に拙さはあっても、歌が全てを超えていった。
「リラは魂で歌ってる」
「世界を変える歌声」
やがて海外のトップチャートで1位を獲得。
パリのステージ、ニューヨークのステージで、数万人が彼女の歌詞を合唱した。
異国の言葉で、自分の詩を口ずさむ観客を前に、リラは涙をこらえられなかった。
(あのとき、いいねケースを閉じたから……私は今ここにいる)
スターになっても、彼女は飾らなかった。
質素な服装で街を歩き、ファンに声をかけられれば笑顔で応えた。
記者に「あなたはどうしてこんなに人を惹きつけるのですか」と問われ、リラは答えた。
「……ただ、寂しかったんです。寂しいときに歌を書いて、歌って。
それを聴いてくれる誰かがいてくれるなら、それだけで幸せだから」
観客はさらに彼女を愛した。
リラは確かに、幸せの絶頂にいた。
だが、スタジアムの喧騒から離れ、静かな楽屋で一人、ノートを開くと、言葉は一行も出てこなくなっていた。
かつて溢れ出した詩が、今は何も降りてこない。
(どうして……?)
鏡に映る自分。
ほのかに刻まれた疲労の影。
歓声はまだ耳に残っているのに、胸の奥には冷たい空洞が広がっていた。
(私の歌詞は、枯れてしまったの……?)
ノートの端に、あの夜見た「イイネケース」の幻がちらついた。
彼女の未来に、新しい影が忍び寄っていることに、この時のリラはまだ気づいていなかった。
つづく。




