嫉妬の指輪
世界のどこかで、ふと出会うことがある。
その名はノア。人にも、妖精にも見える存在。
ノアはただ、あなたにひとつの道具を差し出すだけ。
それをどう使うかは、あなた次第。
行き着く先を、ノアは静かに見届けている。
***
美沙子は、夫のスマホを見る癖がついていた。
風呂に入っている隙、寝息を立てた隙……
無意識のように指先がスマホを手に取る。
見てはいけない、と分かっているのに。
画面に映る、女の名前。
深夜のやり取り。
「次、会えるのはいつ?」という甘えた文面。
心臓が跳ね、同時に吐き気が込み上げた。
(やっぱり……浮気してる)
胸の奥で嫌悪と憎悪が渦を巻く。
裏切りの証拠を見つけても、ただ気持ち悪さが積み重なるだけだった。
(見たくなんてない……でも、真実を知りたい……)
矛盾する思いに苛まれ、夜ごと眠れなくなっていった。
そんなある日。
ショーウィンドウの前に立つと、ガラスに黒いマスクをつけた青年が映っていた。
月光に照らされた横顔は、中性的で艶やかだ。
大きな瞳は人の心を覗き込むように澄み、白い肌は冷たく光を反射している。
少年のようでありながら、唇にはどこか妖艶な色気が漂う。
その存在は現実離れしていて、美沙子は思わず足を止めた。
「見たいんだろう?真実を。」
甘やかで低い声が耳の奥に響く。
ノアは白い指先をすっと伸ばし、銀色の細い指輪を差し出した。
「これをつければ、夫の浮気の現場を覗ける。
ただし……覗いたものが、君にどう映るかは、分からない」
美沙子は嫌悪を抱えながらも、真実を知りたい衝動に抗えなかった。
震える手で指輪を受け取り、左手の薬指にはめた。
結婚指輪の隣に、冷たい光が重なった。
夜。
夫が隣で眠るのを確かめ、美沙子は指輪を強く握った。
目を閉じると、闇が揺らぎ、鮮明な映像が浮かび上がる。
ホテルの一室。
夫が、若い女と笑い合っていた。
(……やっぱり!)
胸が締めつけられる。吐き気を覚え、涙がこぼれた。
嫌悪感で全身が震える。
そこまでで止めればよかった。
だが、美沙子の目は画面から離れなかった。
(この先は……? 二人は、どうするの……?)
自分でも理解できない衝動が、視線を縛りつける。
もっと知りたい。最後まで確かめたい。
映像の中で、夫は女の肩を抱き、ベッドに倒れ込んだ。
甘い声、絡み合う影。
現実よりも生々しく、淫靡に映し出されていく。
「いや……やめて……」と呟きながら、心臓は早鐘を打ち、下腹部が熱く疼いた。
嫌悪と同時に、奇妙な昂ぶりが身体を支配する。
涙と嗚咽と、抑えられない震え。
(見ちゃいけない……でも、もっと……見たい……!)
美沙子は、自分が異常な興奮に絡め取られていくのをはっきりと感じた。
翌日から、美沙子は毎晩指輪にすがった。
嫉妬と嫌悪と興奮。
夫の裏切りを「最後まで見る」ことでしか、心も身体も満たせなくなった。
夫の顔を見るたび、その背後に女の影が二重写しのように見え、呼吸が早まった。
夫に触れられると、その手が女を抱いていた瞬間を思い出し、涙と笑いが同時にこみ上げる。
(もっと……もっと裏切って。私を嫉妬で壊して……)
美沙子はもう、ただの妻ではなかった。
夫の裏切りを拒絶するどころか、裏切りに酔い、嫉妬に快楽を見出す異常な存在へと変貌していた。
ある夜。
夫が「ただいま」と帰宅し、優しい笑顔を見せた。
普段と変わらぬ仕草。だが美沙子には、その姿が女と抱き合う夫の影と重なって見えた。
「見たわよ……全部……」
夫が驚いた顔をする。
次の瞬間、美沙子は指輪を食い込ませ、爪が手の甲に血を滲ませながら狂ったように笑った。
「もっと裏切って……もっと私を嫉妬させて……!」
夫は恐怖に後ずさり、足をもつれさせて倒れ込んだ。
美沙子の笑い声が、暗い部屋に響き渡る。
翌朝。
夫の姿はどこにもなかった。
ベッドの上の美沙子は、鏡に映る自分自身を見て震えた。
指輪が皮膚に食い込み、外せなくなっていた。
瞳は異様な光を放ち、唇は無意識に微笑んでいた。
窓辺に現れたノアは、静かに囁いた。
「嫉妬は愛の裏返し。
けれど、それを快楽に変えた時——愛はもう壊れてしまうんだよ」
部屋には、美沙子の押し殺した笑い声とすすり泣きが、いつまでも混ざり合って響いていた。